☆倭姫の宝珠の願い☆

☆☆☆倭姫の願い☆☆☆

☆大宇宙の真理-合理性を知らしめる倭姫☆

Princess Japan Yamatohime showing the truth and the rationality of the Philosophy in the Mankind World

☆ 宝珠

如意宝珠-Cintamani
(にょいほうじゅ チンターマニ 梵: चिन्तामणि [cintaamaNi])とは、仏教において様々な霊験を表すとされる宝の珠のこと。サンスクリット語でチンターとは「思考」、マニは「珠」を指す言葉で、「意のままに様々な願いをかなえる宝」という意味である。如意宝、如意珠、または単に宝珠(ほうじゅ、ほうしゅ)とも呼ばれる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E5%AE%9D%E7%8F%A0

http://en.wikipedia.org/wiki/Cintamani

☆ NOTE:下記掲載の如意宝珠観音の人形の作品の画像の出典元 ☆:
http://www.pict-jp.net/odakobo/index.html
http://www.pict-jp.net/odakobo/kannon.html

倭姫

2016年9月30日金曜日

【原発支持のあなたへ】これだけは知っておくべき事実#武田邦彦



2016/09/07 に公開
【原発支持のあなたへ】これだけは知っておくべき事実#武田邦彦

2016年9月29日木曜日

President Barack obama in hiroshima speech オバマ大統領 広島 感動スピーチ 日本語字幕 全文

オバマ大統領 広島 感動スピーチ 日本語字幕 全文 President Barack obama in hiroshima speech 被爆地 訪問



2016/05/28 に公開

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President Obama Participates in a Wreath Laying Ceremony



2016/05/27 に公開

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オバマ大統領広島訪問 岩国基地演説



2016/05/27 に公開

オバマ大統領広島訪問直前、岩国基地での演説です

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2016/05/27 に公開
オバマ米大統領の広島訪問を少年時代を広島で過ごしたモーリー・ロバートソンさんが自身の過去の経験を踏まえて涙ながらに名解説します。

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【モーリー・ロバートソン】生い立ちを語る~大竹まことゴールデンラジオ~



2014/10/01 に公開
日米混血で、ジャーナリスト、ミュージシャン、作家のモーリー・ロバートソンが生い立ちについて語っています。日本人とアメリカ人の違いについて、眞鍋かおりとの出会い等興味深い話が満載。
(「大竹まことゴールデンラジオ」より)

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2016年9月27日火曜日

武田邦彦 メルトダウン無ければ日本は終わってた!東日本壊滅!




2016/07/04 に公開
武田邦彦 メルトダウン無ければ日本は終わってた!東日本壊滅!


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原発は危険 - 川内原発再稼働について - / 武田邦彦ブログ音声


2015/02/24 に公開
武田邦彦 ( 中部大学教授 )
ブログ音声 [ http://takedanet.com ] より

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【武田邦彦】 〈復活する安全神話〉 福島原発事故は地震と津波だけが原因ではない!  


2016/06/29 に公開
工学者の武田邦彦さんが、福島原発事故から5年以上が経ち再燃する安全神話への危惧と、福島原発事故が起きた地震と津波だけではないそれまでの安全性の解釈が間違っていたメカニズムを語っています。
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武田邦彦★原発再稼動に反対する科学的根拠!原子力発電所の危険性と発症する病気を徹底解説!



2016/09/10 に公開

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日本は凄い ! ! 地震と原発、集中地帯 ( 武田邦彦ブログ音声より )



2015/03/01 に公開
武田邦彦 ( 中部大学教授 )
ブログ音声 [ http://takedanet.com ] より
 
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【武田邦彦】 〈復活する安全神話〉 福島原発事故は地震と津波だけが原因ではない!

【武田邦彦】 〈復活する安全神話〉 福島原発事故は地震と津波だけが原因ではない!



2016/06/29 に公開
工学者の武田邦彦さんが、福島原発事故から5年以上が経ち再燃する安全神話への危惧と、福島原発事故が起きた地震と津波だけではないそれまでの安全性の解釈が間違っていたメカニズムを語っています。

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原発は危険 - 川内原発再稼働について - / 武田邦彦ブログ音声 #武田邦彦 #武田教授

2015/02/24 に公開

武田邦彦 ( 中部大学教授 )
ブログ音声 [ http://takedanet.com ] より
 

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2016年9月26日月曜日

地震周期説のカラクリを教えます ( 武田邦彦ブログ音声より )


地震周期説のカラクリを教えます ( 武田邦彦ブログ音声より ) 



2015/03/05 に公開

武田邦彦 ( 中部大学教授 )
ブログ音声 [ http://takedanet.com ] より

・ あきらめよう! 地震予知はできない その3
2015/03/06 ブログ記事 [ http://takedanet.com/archives/1021192... ]


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【武田邦彦】熊本地震 予測が外れる理由を、科学者的目線で明言。



2016/04/19 に公開
2016年4月18日
熊本地震を、科学的目線でニュース解説。

テレビ、新聞、雑誌に出てくる、
地震学者、地震専門家、と自称している面々は

どうして、地震予測、地震予知、が当たらないのか?

その理由を、
武田邦彦が、科学的根拠を示しながら、解説しています。


みなさん、どう感じますか?

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なぜ、熊本に地震が起きたのか?


2016/04/14 に公開

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【武田邦彦】 地震予知・火山予報は当たらないのに、悪びれない学者たち!



2016/09/06 に公開

【武田邦彦】 地震予知・火山予報は当たらないのに、悪びれない学者たち!

ご覧頂きありがとうございます!

◆武田邦彦:https://youtu.be/7AHc83NgZC4 より
画像引用元:http://alpacask.com/img/11842/


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デタラメ地震予知にご用心 ( 武田邦彦ブログ音声より ) #武田邦彦 #武田教授



2015/03/22 に公開

武田邦彦 ( 中部大学教授 )
ブログ音声 [ http://takedanet.com ] より
 
・ あきらめよう! 地震は予知できない
2015/03/01 ブログ記事 [ http://takedanet.com/archives/1020798... ]
 
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【ロバート・ゲラー博士】武田邦彦 なぜ、熊本に地震が起こったのか?



2016/04/18 に公開
2016年4月18日

ノーカットUPです。
地上波では決して聞くことが出来ない、地震学会の裏側を隠さず話してます。
真実を聞いて、私たちは、何を考えて、何をすべきか?
あなた自身で考えるきっかけになるとうれしいです。

ゲスト:地震学者のロバート・ゲラー博士

司会 聞き手:武田邦彦

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村井俊治東京大学名誉教授【地震予測が大幅向上!】地震予測と大企業の協力



2016/03/29 に公開
東京大学名誉教授村井俊治氏の予測はよく当たると言われてます。

彼は科学的な根拠で予測しています

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南海地区で大地震警戒:村井教授の「累積ひずみ」による最先端地震予測

2014/05/22 に公開
[村井俊治教授]南海地区で大地震警戒:高精度の「累積ひずみ」による最先端地震予測
http://shanti-phula.net/ja/social/blo...

動画の概要
Mr.サンデーで再び村井俊治教授が取り上げられる!更に精度が高まった村井氏の地震予測!東京震度5や伊予灘地震を的中! 
http://saigaijyouhou.com/blog-categor...

5月18日(日曜)に放送された「Mrサンデー」というテレビ番組に、地震予測専門家の村井俊治(むらい しゅんじ)教授が再び取り上げられました。村井氏は全国に設置されているGPS観測網を利用して地震予測をしており、東日本大震災を含めた大地震の前兆をしっかりとこれらのデータで把握していたのです!

GPS観測網というのは全国各地の地殻変動を観測するためのシステムで、村井氏は大地震が発生する数週間から数ヶ月ほど前に数センチ単位の地殻変動が発生することを発見しました。

例えば、2003年に発生した北海道十勝沖地震の時は、事前に約4センチの変動を観測しています。また、新潟県中越沖地震や宮城沖地震でも例外なく、同じ様な変動を捉えていました。
しかしながら、当初の村井氏はこのようなデータには半信半疑で、2010年後半にかつて無いほどの猛烈な変動を観測するも、「データのエラー」として判断してしまいます。

その結果、東日本大震災の前兆を把握していたのに、東日本大震災に対する警告を発することが出来ませんでした。これは彼にかなりの精神的なショックを与えたみたいで、その時の後悔からデータを世間に発表することにしたと村井氏は話しています。

今は地震予測に本腰を入れているみたいで、新しい「累積ひずみ」という方式を導入して、更に地震予測の制度が前よりも上昇しているとのことです。私も彼のメルマガを登録していますが、中々興味深い情報やデータを提供してくれるので、中々読み応えがあります。現時点では詳細な日時を断言できるようなレベルではないですが、的中率が非常に高く、かなり参考になると言えるでしょう。最先端の地震予測に興味の有る方は、是非とも村井氏のメールマガジンを登録してみてください!

動画の出典:http://video.fc2.com/content/20140519vtZfwZu6/&otag=1&tk=



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参考リンク

http://inoue-instagram-blog.com/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E4%BA%88%E7%9F%A5-2016-%E6%9D%91%E4%BA%95-%E6%9C%80%E6%96%B0-3%E6%9C%88-557/

村井教授2016年【最新の地震予知】NTTドコモとのコラボで予測の精度が上がる!?

村井教授とは?NTTドコモとのコラボ内容も紹介!
村井教授というのが、
どのような方なのかご存じない方もいらっしゃると思いますので、
村井名誉教授のご紹介とNTTDOCOMOと電子基準点を共同で建てる内容をシェアします。

村井教授というのは、
今でこそ日本の地震予知業界では有名な方ですが、
東京都出身で東京大学(東大)で測量学の名誉教授として君臨する
測量学会では世界的な権威な方なんです。

お名前は村井俊治(むらいしゅんじ)さん。
1939年(昭和14年)生まれで、2016年には77才になられます。

地震予知や地震予言にアンテナを張っている人は
だいぶ前からご存じだったかもしれませんが、
世間一般に知られるようになったのはMr.サンデーというテレビ番組の出演です。

村井教授は、
2015年9月6日にミスターサンデーに出演し、
9月・10月に大きな地震が起こる事を示唆し、警告を出していました。

すると、
なんと番組出演のたった6日後、、、

東京都調布市で震度5の地震が発生し
一躍注目の人となったわけです!

地震予知業界では、
村井教授と並んで早川教授という有名な方がいますが、
早川教授については別の記事でシェアしますね!

そんな中、
2016年の3月6日に再びMr.サンデーに出演し、
首都直下型地震についての特集が組まれたわけですが
そこで村井教授がNTTドコモとのコラボで電子基準点を設置することが発表されました。

そもそも、
村井教授の地震前兆予測方法というのが、
日本全国に電子基準点を置き、その基準点における地殻変動データより
大地震の発生を予測するという手法なのです。

で、
今までの問題点は、
村井教授が顧問を務めるJESEAという機構が
独自に電子基準点を設置して前兆現象の把握に努めていたわけですが
結論から言うとお金が足りずに、電子基準点の設置台数が少なかったわけです。

ここに、
一役かってくれそうなのが
ドコモ!ということで期待は大なのです!!!

NTTDocomoとしてのメリットは、
ドコモユーザーへの緊急避難情報をいち早く発信出来るようになることで
ユーザーをソフトバンクやAUから呼び戻そうということなのでしょう。

2016年3月、、、首都直下型地震が起こる可能性はあるの?

首都直下型地震や関東大震災などの巨大地震に関しては、
2020年の東京オリンピックまでに100%発生する断言する教授もいるくらいなので、
近い将来大きな地震が起こる可能性は高いと考えて間違いないでしょう。
ですが、
そのタイミングが誰にもわからないので
地震予測をしてくださる学者の方がいて、
僕たちはその情報を有料で購入するわけです。
ということで、
2016年の3月に巨大地震が起こるかどうか?は、
確実ではありませんが、可能性としては全く否定できないということなのでしょう。

最後に、
今回紹介している村井教授が、
2016年3月に要警戒地域としている地方を紹介します。
以前より要警戒と言われている地域が、、、
  • 房総半島
  • 三浦半島
  • 伊豆半島
  • 御前崎付近

そして、
2016年3月最新の地震予言/警戒都道府県は、、、
  • 富山県
  • 石川県
  • 福井県
  • 長野県
  • 新潟県
  • 岐阜県
これら6県が、最警戒地域で
  • 東京都
  • 神奈川県
  • 千葉県
  • 山梨県
を中心とする関東地方と
南海トラフ地震や東海大地震が心配される
  • 愛知県(名古屋)
  • 静岡県
この2県も要警戒地域とされています。

村井教授の地震予言情報というのは、
目に見えないパワー的なものではなく
理論的な根拠を元にしたデータ解析でもあるので、
1年後の予測をたてることなどが難しいので定期的に最新情報を追いかける必要がありますね。
ということで、
2016年4月以降も最新情報が入り次第、
このブログでもシェアしていきたいと思います!


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参考リンク

「来年3月までに南海トラフ巨大地震が起きる」的中率75%!?東大名誉教授の地震予測とは


2016/04/27 に公開

「南海トラフ巨大地震が迫っている」…と、世間では騒がれつつも、国の有識者会議が5月に出した結論は、「地震予知は現状では困難」というものだった。
その一方で、なんとか地震予知を実用化しようと様々なアプローチを試みている科学者もいる。
今回紹介する、東京大学名誉教授で測量学の世界的権威である村井俊治(しゅんじ)氏もその1人だ。
村井氏は、独自の方法論によって地震予測を繰り返した結果、的中率が75%にまで上昇。東日本大震災の前にも、同様の方法で前兆を捉えていたというのだから今回の予測も見逃せない。


 

2016年9月25日日曜日

古文書に見る大分の地震・津波


2014/11/21 に公開 歴史と自然を学ぶ会が創立35周年を記念して「地震・津波in大分」をテーマにシンポジウムを開催しました。講演は「古文書にみる大分の地震・津波」。慶長豊後地震と宝永4年南海地震の津波被害の実態を検証し、数十年以内に予測される「南海トラフや別府湾地震に備えて、古文書を元にその災害対策を検証しました。 ※基調講演 前大分先哲史料館館長 平井義人氏 大分の歴史と自然を学ぶ会 ホームページはこちらから http://rekishitoshizen.web.fc2.com

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大分の地震・津波:南海トラフと別府湾地震


2014/11/22 に公開
3,11東日本大震災以降、津波を含む地震災害が大きくクローズアップされてきました。大分にとって発生予測が高い南海トラフ巨大地震は早急の課題です。歴史と自然を学ぶ会では、「地震・津波in大分」をテーマにシンポジウムを開催しました。
 南海トラフや別府湾で起こる地震についての地震現象や被害想定について紹介します。
基調講演 竹村恵二氏 京都大学地熱学研究施設・教授

※ 「古文書にみる大分の地震・津波」(60分)と併せてご覧ください。

大分の歴史と自然を学ぶ会
ホームページはこちらから
http://rekishitoshizen.web.fc2.com

2016年9月24日土曜日

Whale Song

Whale Song

https://youtu.be/WabT1L-nN-E


Humpback Whale Music, Stress Relief, Whale Sounds, with Theta Isochronic Tones for Relaxing

https://youtu.be/nImKoUyHgTI
2014/01/09 に公開
Let go of stress & anxiety. Learn meditation, yoga & be inspired with Jason & friends at Meditation Masters TV. Begin to change your life for the better today. Click here now: http://vid.io/xqAy
Enter into an underwater world with the humpback whales. This relaxation music/sounds is produced to relieve stress through the Theta Isochronic Tones.
They take you down in to the Theta range whist at the same time you can hear humpback whale music, underwater bubbles and calls of the dolphins.
For more relaxation music, please visit http://www.relaxmeonline.com




Beautiful whale song

https://youtu.be/Y6czoDEQ0a8



A Polar Whale's Appeal

2016年9月21日水曜日

このままでいいわけがない  小泉純一郎大いに語る「自民党は、どうかしている」「日本人よ、目を覚ませ!」 


小泉純一郎大いに語る「自民党は、どうかしている」「日本人よ、目を覚ませ!」

このままでいいわけがない

2016・8・27 「週刊現代」

講談社
毎週月曜日発売


「週刊現代」2016年8月20日・27日合併号より

【独占】
取材・構成/横田一

① http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49478

2年半前、都知事選の舞台に突如上がり、国民を驚かせた小泉氏。以来、公の場に姿を現す機会の少なかった氏が、再び立ち上がろうとしている。今度こそ全ての日本人に、大切なことを伝えるために。

安倍がダメならオレがやる

今年の春、私は衝撃的な映像を目にしたんです。それは'11年3月11日、あの東日本大震災の日に、いわゆる「トモダチ作戦」で福島近海に入った米軍兵士が、スマホで撮影したものでした。

東北の被災地にヘリで向かい、救援活動にあたった兵士たちが、福島沖に停泊している空母「ロナルド・レーガン」に戻ってきた。すると、放射能測定器がガーガー鳴り始める。兵士たちはパニックです。「終わりだ」「オレたちは今、核のホロコースト(大虐殺)の真っただ中にいるんじゃないか」と叫ぶ声も入っていました。

映像を見せてくれたのは、日系4世で広島被曝2世のエイミー・ツジモトさんという方です。エイミーさんは「ここで被曝した兵士たちはその後体調を崩し、除隊を余儀なくされた人もいる。なのに、日米両政府は取り合ってくれない。小泉さんがアメリカに来てくれれば、ニュースになるかもしれない」と言う。それで私は5月、カリフォルニア州サンディエゴへ飛んだのです。

東日本大震災以後、「原発即時ゼロ」を主張し、国内外で活動を続けている小泉純一郎元総理が、約1時間に及ぶ本誌の独占インタビューに応じた。

普段マスコミの前で多くを語ることのない小泉氏だが、この日彼には「日本国民に訴えたいこと」があった。それは、自ら発起人となって先月設立した「トモダチ作戦被害者支援基金」への寄付だ。

日本ではあまり知られていないが、「トモダチ作戦」で被災地支援に参加した米兵のうち約400人が、その後被曝によると思われる健康被害で除隊を強いられ、7名が白血病などで亡くなっている。

「日本のために全力を尽くしてくれた彼らを、日本人として見過ごすことはできない。政府が動かないのなら、われわれがやる」


— 小泉氏はそう話す。


NEXT   最低でも1億円集めたい。

② http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49478?page=2


7月5日に基金創設の記者会見を開き、東京新聞に一面広告も出しました。1ヵ月足らずで、もう3000万円を超える額が集まっています。募集期限は来年の3月31日ですが、少なくとも1億円は集めたいね。

原発事故当時は海に向かって風が吹くことが多かったから、放射性のプルーム(雲)が、停泊していた空母を直撃した。しかも空母では海水を濾過し、真水にして使うそうですが、放射性物質までは取り除けない。シャワーや料理に使う水もすべて汚染されていたから、兵士たちは原発事故の最前線で、内部被曝と外部被曝のダブルパンチを受けたのです。

彼らは帰国後、鼻血が出たり、下血したり、腫瘍ができたり、原因不明の体調不良に襲われた。ところが、海軍病院の医者に診てもらっても「放射能が原因とは言い切れない」と、因果関係を認めてもらえませんでした。

被災者救援に携わった海兵隊は、米軍でも一番訓練が厳しい部隊として有名です。貧しい家庭の出身で、体ひとつで身を立ててきた隊員が多いとも聞いています。そうした頑強な若者たちが400人も、普通ならあり得ないような体調不良を訴えている。被曝と関係があるとしか考えられない。

アメリカは医療費が高いので、病院にもなかなか行けません。再就職をしようにも、体が衰弱しているから難しい。薬も高い。そういう話を聞いて、20代や30代の未来ある若者が困っていると知ってしまったからには、同情だけでは済まない。行動しないといけません。

私は10名の兵士たちと会ったのですが、その時「日本に対して何か言いたいことはありますか」「後悔していませんか」と全員に聞きました。でも彼らは、恨みがましいことは言わないんだ。「日本のことは今も大好きです」「僕らは、全力で任務にあたっただけです」と答えてくれた。記者会見のときには、そのやりとりを思い出して、思わず涙が出てしまってね。

現在、彼らは東電とGEを相手取ってアメリカで訴訟を起こしています。入隊のときに「何があってもアメリカ政府を訴えない」という誓約書を書いているから、政府を訴えることはできないんです。


NEXT  読売新聞に公告を断られた

③  http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49478?page=3

当然ながら、東電は「原発事故と体調不良に因果関係があるとは断定できない」と賠償を拒否しています。アメリカの裁判は日本と違って、原告も被告も徹底的に情報開示をしないといけませんから、「トモダチ作戦」に加わった兵士の本当の被曝線量など、表に出したくない情報が出てきてしまう。それだけは何としても避けたいのでしょう。

日本政府も沈黙しています。実は訪米前に、外務省の北米局長に会ってこの話をしたのですが、「政府として法的には何もできない」と言っていました。

基金を設立したときも一悶着ありました。信頼できる知人に「発起人になってくれないか」と頼んで回ったんですが、なかなか受けてくれない。ある財界人は「私の一存では決められない。会社に相談してみる」と持ち帰ってはくれたけど、結局NG。だから、もう少数精鋭でやろうと思ったんです。

新聞広告も、東京新聞だけでなく読売新聞にも申請していたんです。ところが読売は「裁判で係争中の事案は掲載できない」と断ってきた。理解できませんよ。だって、現に健康被害を受けている人、病に苦しんでいる人がいるわけだから。裁判でどっちが勝とうが負けようが、困っている人たちを助けなければいけないことに変わりはないでしょう。

つまり、日本でもアメリカでも、いまだに原子力ムラは強大な勢力を保っている、それどころか息を吹き返しつつあるということです。被曝した兵士がいることなんてほとんど報道されないし、支援基金に協力してくれる財界人は皆無に等しい。最終的に発起人は、'14年に一緒に脱原発を訴えて都知事選を戦った細川護煕元総理と、大野剛義(元さくら総合研究所社長)さん、吉原毅(城南信用金庫相談役)さん、そして私の4人でやることになりました。

でも、男気にあふれる申し出もありました。基金設立を知った建築家の安藤忠雄さんが、「これは日本人として絶対に見過ごせない問題だ」と、8月18日に、大阪で大規模な講演会を開いてくれることになったのです。安藤さんは「会費1万円で1000人集めて、収益は基金に全て寄付するから、小泉さんが講演してくれないか」と言うから、「喜んで行きます」と快諾しましたよ。
実は安藤さんとは、総理をやっていた時からの付き合いでね。安藤さんは当時、産業廃棄物が不法投棄されていた瀬戸内海の豊島に美術館を作り、一大観光地に変えた。それを総理時代に見に行って、「大したもんだ」と思ったんです。いま安藤さんはガンを患っていて大変なのに、意気に感じて立ち上がってくれたんですね。

進次郎は協力してくれないのかって?あいつはあいつで忙しいみたいですからね。この前も「地元(横須賀)の人が用意してくれたから、行かなきゃ」って、祭りのハッピを着て急いで出て行きましたよ。進次郎は、そうやって普段から地元を回っているから(選挙に)強いんだ。一度当選してしまうと、地元をまめに回らなくなるのが普通の国会議員なんだけど、進次郎は違うんです。だって、あいつは選挙のときはヨソの議員の応援に行かないといけないから(笑)。

トモダチ作戦の基金のことは、まだちゃんと話してはいないけど、私の本(原発や基金について語り下ろした『黙って寝てはいられない』、扶桑社刊)は読んでいますよ。どう思うかは本人次第。進次郎は進次郎だから。

それにしてもこの前、基金創設を発表するために細川さんと一緒に記者会見を開いたら、やって来た記者はほとんど都知事選、小池(百合子)さんの質問ばかりでしたね。原発の話題で、こんなにたくさん記者が集まるのか、とぬか喜びしちゃったよ。「小泉さんは都知事選に出馬しないんですか」という質問まで出た。冗談じゃないよ(笑)。

NEXT  安倍総理につたえたこと

④ http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49478?page=4

小池さんは大変でしたね。応援した議員は一族郎党含めて、みんな自民党を除名だと脅された。私もあれには呆れて、ある新聞記者と会った時に、「あの通達はひどい」「オレが小池さんを応援したら、進次郎は除名になるんだって」とこぼしたんです。その発言がそのまま紙面に載って、ちょっとした騒ぎになったみたいですが。

前回('14年)の都知事選では、私は自公推薦の舛添(要一前都知事)さんではなく細川さんを応援したけれども、当時の自民党はそんなことは言っていなかった。都議会や各地の県議会には、それぞれ自民党のボスがいて、国会議員を上回るほどの力を持っている。それで今回、あんな話が出たんでしょう。自由と民主主義を標榜する自民党のはずなのに、笑っちゃうよね。ちょっと、どうかしてるんじゃないか。

小池には期待している

小池さんは、原発やエネルギー政策については「できる限り自然エネルギーにシフトしてゆきたい」と公約している。私が政界を引退してからはもう長いこと会っていないけど、ぜひ頑張ってほしい。彼女は小泉政権でも「クールビズ」を普及させたり、昔からアイデアウーマンだから。

鹿児島でも、原発再稼働反対を掲げて、三反園訓さんが県知事に当選しました。脱原発を訴えて知事になった彼は偉いよ。鹿児島に会いに行かないといけないな。県知事に面と向かって反対されたら、さすがに九州電力だって、川内原発を動かし続けるわけにはいかないでしょう。

昨年以降、原発の再稼働が各地で始まっています。この夏にも、愛媛の伊方原発がまた動き出す。しかし、日本はもうこの5年間、ほとんど原発に頼らずやってきた。この事実は重いですよ。「原発即時ゼロ」でも大丈夫なんだと、もう証明されてしまっているんですから。

私は以前、安倍総理に会ったとき、はっきりと「原発ゼロにすべきだ」と言いました。安倍さんは笑いながら聞いていたけれど、総理大臣が方針さえ示せば、国民は共感して、ついてきてくれるはずなんです。私だって総理のときは「原発は必要だ」と考えていた。だけど、後からそれが間違いだと分かった。日本人全体が、今こそ目を覚ますときだと思います。

「過ちては改むるに憚ることなかれ」。自分が間違っていたと思ったら、いつでも意見を変えればいい。私はまだ、諦めていません。

「週刊現代」2016年8月20日・27日合併号より

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RELATED ARTICLES
「安倍総理は強引」「進次郎には資質がある」
小泉純一郎元首相が独白録に込めた怒りと希望  

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2016・03・02

小泉純一郎元首相が独白録に込めた怒りと希望

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48042

常井 健一
撮影:常井健一

独占インタビューの舞台裏

「安倍さんは全部強引、先急いでいるね」「進次郎が総理になる資質、他の議員に比べればあるよ」

豪放直言。小泉純一郎元首相(74)の独白本が発売され話題を集めている。長時間の取材には一切応じなかった小泉氏が、なぜいま口を開いたのか。その舞台裏と、小泉氏が内に燃やす「野心」について、インタビュアーとなったノンフィクションライターの常井健一氏が明かす。

政界引退後もなお、その記憶が語り継がれ、人気の衰えを知らぬ小泉純一郎元総理(74)。総理退任から10年という節目に初のロングインタビューに応じ、無名のフリーライターである筆者の質問に4時間半にわたって真摯に答えた。その記録をまとめたのが、2月25日に上梓した『小泉純一郎独白』(文藝春秋社刊)だ。

筆者(36)は、2012年末、人気・知名度の割にメディア露出が極めて少ない政治家・小泉進次郎(34)に興味を持ち、全国各地で密着取材を始めた。以来3年間、街頭演説や講演、視察、党内活動、地元回りなど、彼の肉声を拾った機会は全国300か所以上にも及ぶ。

小泉進次郎氏を追えば追うほど、方々で「原発ゼロ」を明確に訴える父・純一郎氏と、「誰もが原発なしを望んでいる」と議論の必要性を訴えながら、いまいち歯切れの悪い進次郎氏との違いが気になっていた。そこで筆者は思い切って純一郎氏に取材を申し込んでみた。

今回のインタビューを実現するのに、なにか秘策があったわけではない。筆者はこれまで進次郎氏の取材でも同氏の事務所から便宜供与を受けたことはないし、純一郎氏につながる特別なコネクションを持っているわけではない。

取材を申し込む際にいつも使う「銀座 伊東屋」の便箋7枚に、思いを込めて手紙を書いただけだ。
純一郎氏本人から筆者の携帯に電話があったのは、その11日後のことだ。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48042?page=2

溢れる「現役感」

ウラもオモテもない。それが、すべてだった。

沈黙を守り続ける大物の独占インタビューというものは、概して、受ける側に何かメリットがあるから受けるものだ。主導権も受け手側が握ることになる。そう考えると、純一郎氏にも彼なりの目論見があったのだと思う。

1つ目は、「原発ゼロ」についての主張を保守論壇で展開したかった、ということ。リベラルな新聞社や出版社の媒体に掲載したのでは、もともと支持しているような人たち以外に広がりにくい。そこで『文藝春秋』という保守系の雑誌に載ることに意味がある。純一郎氏が電話で「インタビュー、受けるよ」と言った後、すぐに掲載媒体について確認された覚えがある。

2つ目は、正月号に載せたかったということ。月刊誌や週刊誌は、正月号の第一特集が一番読まれるものだ。普段雑誌を買わない人も帰省の移動中などに買ってくれる。

インタビューを始める前に、純一郎氏から「何月号に載せるの?」と聞かれ、「11月発売号です」と答えると、「もっと練ったほうがいいよ」と言われた。結局正月号に載せることになったが、結果として世の注目も集まり、朝日、毎日、読売の論壇面でもこの記事が取り上げられることになった。
3つ目は、筆者がフリーランスだったから。小泉純一郎という政治家は、昔から雑誌やスポーツ紙にも自分の意見が載ることを重んじる人だった。支持の裾野がより広がるから、ということだろう。今回も、「若い無名のライターに、オープンに書かせる」というのは、ある種の小泉流のイメージ戦略でもあったと思う。

インタビューの会場となったのは、東京・赤坂にある小料理店「津やま」。政財界の重鎮や大物芸能人がこよなく愛する名店だが、小泉氏にとっては政治の師・福田赳夫に紹介されて以来、40年以上も晩酌をしに通う〝台所〟である。筆者が約束の10分前に到着すると、純一郎氏はすでに一人で待ち構えていた。

初対面にもかかわらず非常にざっくばらんで、何を聞いても包み隠さず話してくれたのが印象的だった。まず、緊張する筆者に対し、「あなたの書いた進次郎の本読んだよ。あれほど取材しているのは強いよ」とねぎらいの声をかけてくれた。

おそらく多くの読者は街頭で大声を張り上げる純一郎氏のイメージが強いと思うが、実際の声は、思いのほか小さい。取材用のボイスレコーダーにきちんと収まっているのか、終始心配せずにはいられなかったほどだ。

郵政解散の時、記者会見に臨む前に参加した経団連の奥田碩会長(当時)との会合で、日本酒を二合飲んだという逸話を明かした際に、「酒と女は二ゴウまで」という言葉がふっと出てきたり、趣味の短歌を幾つも披露したり、ユーモアとサービス精神も感じられた。

また、「発表する前に原稿をチェックさせて」などと、三流政治家が我が物顔で注文してきそうな野暮なことは一切言わない。筆者も、彼の発言をまとめた原稿を事前確認ナシで「文藝春秋」新年号に掲載した。

今回の書籍にあたっても、純一郎氏から電話がかかってきた際に「書籍にします」と切り出すと、「あぁ、いいよ。常井さんの名前で書くなら。お好きに出してください」という明快で歯切れの良い返事をもらった。筆者は、今回の仕事を通じて、現職時代の「小泉純一郎にオフレコなし」という評判は本当だったのだと痛感した。それぐらい「現役感」が溢れている。

NEXT  続々と語られる秘話

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48042?page=3

父が語った「政治家・小泉進次郎」

拙著のキモは、異例の本人取材で明らかになった純一郎氏と、かつて自身が後継指名した安倍晋三氏との違いである。

先述のように、小泉政権時代には純一郎氏に厳しい目を向ける雑誌記者やフリーランスにもきめ細かく対応をしていたが、安倍政権の場合は、総理を中心にフジサンケイグループなど比較的思想の近いメディアに露出する傾向がある。さらに野党や反対派の異論に対しても、二人の対応は実は大きく異なる。

純一郎氏は安保法制や憲法改正などを例示し、「安倍さんは全部強引、なんか先急いでいるね」と批判するなど、本書の中で「総理大臣とはどうあるべきか」を饒舌に語っている。ただ、そんな中でも「総理大臣」という職務に対する「敬意」は強く感じた。それは年下で派閥の後輩でもある安倍首相のことを一度も呼び捨てにせず、「総理」と呼び続けたことに端的に表れている。

先ほど、インタビューは受け手が主導権を握るものと書いた。しかし、こちらも政治家の言いなりになるわけではない。純一郎氏に宛てた依頼の手紙には「原発ゼロの主張についてお聞きしたい」と書いたが、その話は1時間ほどで切り上げ、残りは政治家・小泉純一郎の頭の中をのぞき込むような質問に徹した。

自身の政治遍歴、塩川正十郎氏や綿貫民輔氏との交遊、小沢一郎氏との知られざる接点、二人の息子たちや今の暮らしぶりなど、これまでベールに包まれていて、読者の関心が高そうな話も聞き出せたのではないかなと思っている。

純一郎氏は、「郵政民営化は田中政治を潰す、経世会を倒すためにやったという意識はなかったよ」などと、これまで歴史家や評論家の間で定説とされてきた解釈を次々と否定し、本人の口からまったく別の意図を話した。手前味噌になるが、そういう意味では日本政治史の定説を覆す野心的なロングインタビューという位置づけにもなったのではなかろうか。

また、人気俳優へと成長した長男・孝太郎氏や、各種世論調査で常に「総理にしたい人」のトップクラスに名が挙がる次男・進次郎氏を振るたび、目を細くして嬉しそうに語っていた。4時間半にも及ぶ取材が終わる頃、純一郎氏の顔はすっかり「父」の顔になっていた。

特に、進次郎氏については筆者が批判的な質問をいろんな方向から投げても、純一郎氏は全面的に擁護し、「進次郎には総理の資質、他の議員に比べればあるよ」と断言した。

NEXT  「遺言」どころではない

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48042?page=4

今回、純一郎氏の取材を通して気づいたのは、進次郎氏が取り組んでいる政策には、小泉構造改革でやり残した課題が多いということだ。一つは社会保障や雇用・教育のあり方、一つは農林中金のあり方を含む農協改革や第一次産業についての課題、一つは電力自由化に関連するエネルギーのあり方である。

最近、進次郎氏は「2020年以降は日本の第二創業期だ」と言い始めているが、筆者はそれを「第二の小泉構造改革の始まり」と解釈している。

では、原発ゼロ社会実現という主張は、親から子に引き継がれるのだろうか。純一郎氏は「それは自分で決めるもんだよ」と言っていたが、3か月にわたって純一郎氏の講演行脚を密着してきた中で見えてきた原発ゼロへの「ロードマップ」については、本書の中に詳しく示しておいた。ぜひご一読いただきたい。

小泉純一郎の「これから」

純一郎氏は現在74歳。古希を超える人物のインタビューとなると、普通はタイトルのどこかに「遺言」の2文字が躍るものだが、そんな気が微塵も湧いてこないほど、同氏には生気が漲っていた。
筆者が純一郎氏と最後に話したのは昨年末。「これからも原発ゼロ、まだ訴え続けていきますから。よろしく」と彼は最後に言っていた。私はこれまで多くの政治家にインタビューしてきたが、これほどのエネルギーを有する政治家は現職でも知らない。

この3月にも福島で講演活動をするなど、血気盛んな青年代議士のように全国を飛び回る純一郎氏を見ていると、近い将来、彼の中でマグマが抑えきれなくなり、隠居生活をやめて表舞台に出てくる可能性は否定できないような気がしている。

「人生の本舞台は常に将来に在り」。これは純一郎氏がいつも講演の締めに使う尾崎行雄の言葉である。純一郎氏の「本舞台」の胎動をぜひ本書から感じ取ってもらいたい。


豪放直言 小泉氏初の独白録


常井健一(とこい・けんいち)ノンフィクションライター。1979年茨城県生まれ。朝日新聞出版入社後、『AERA』で政界取材を担当。退社後、オーストラリア国立大学客員研究員。2012年末からフリー。著書に『小泉進次郎の闘う言葉』『保守の肖像 自民党総裁六十年史』など

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2016年9月13日火曜日

山本八重

Yae Yamamoto 1



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About Aidzu & Yae Yamamoto part1
(from "Nihonshi Suspense Gekijo" 2009 March)

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(from "Nihonshi Suspense Gekijo" 2009 March)

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About Aidzu & Yae Yamamoto part3
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About Aidzu & Yae Yamamoto part4
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【武田鉄矢今朝の三枚おろし】「八重の桜」の裏話



2016/02/17 に公開

武田鉄矢公式サイト⇒http://www.takedatetsuya.com/takeda/a...

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【武田鉄矢今朝の三枚おろし】「八重の桜」の裏話



2016/02/17 に公開

武田鉄矢公式サイト⇒http://www.takedatetsuya.com/takeda/a...



【武田鉄矢今朝の三枚おろし】「八重の桜」の裏話



2016/02/17 に公開

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大山捨松の生涯 ~その情熱と志~



2014/07/04 に公開

明治維新から、わずか4年後の1871年。5人の少女がアメリカに渡った。その中に当時12歳の山川咲子、のちの大山捨松がいた。激動の明治時代にあって初の女子留学生としてアメリカで11年間を過ごし、日本が急激な西洋化政策をとる中、日本人女性の進むべき道を切り開き続けた女性です。「鹿鳴館の名花」と謳われ、日本の西洋化のためにありったけの情熱を注いだ大山捨松の生涯を紐解きます。


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山川捨松 山川咲子 大山捨松

http://www.jpreki.com/sutematsu/



山川捨松(2)日本人女性で初めてアメリカの大学を卒業

http://www.jpreki.com/sutematsu-2/


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大山捨松

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E6%8D%A8%E6%9D%BE

大山 捨松(おおやま すてまつ、安政7年2月24日(1860年3月16日)- 大正8年(1919年)2月18日)は、日本の華族、教育者。大山巌の妻。旧姓は山川(やまかわ)、幼名はさき、のち咲子(さきこ)。愛国婦人会理事。赤十字篤志看護会理事。




来歴・人物

生い立ち

安政7年(1860年)、会津若松の生まれ。父は会津藩の国家老・山川尚江重固(なおえ しげかた)で、2男5女の末娘である。さきが生まれたときに父は既に亡く、幼少の頃は祖父の兵衛重英(ひょうえ しげひで)が、後には長兄の大蔵(おおくら、後の山川浩)が父親がわりとなった。

知行1,000石の家老の家でなに不自由なく育ったさきの運命を変えたのは、会津戦争だった。慶応4年(1868年)8月、板垣退助・伊地知正治らが率いる新政府軍が会津若松城に迫ると、数え8歳のさきは家族と共に籠城し、負傷兵の手当や炊き出しなどを手伝った。女たちは城内に着弾した焼玉の不発弾に一斉に駆け寄り、これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業をしていたが、さきはこれも手伝って大怪我をしている。すぐそばでは大蔵の妻が重傷を負って落命した。このとき城にその大砲を雨霰のように撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長が、薩摩藩出身の大山弥助(のちの大山巌)だった。

近代装備を取り入れた官軍の圧倒的な戦力の前に、会津藩は抗戦むなしく降伏した。会津23万石は改易となり、1年後に改めて陸奥斗南3万石に封じられた。しかし斗南藩は下北半島最北端の不毛の地で、3万石とは名ばかり、実質石高は7,000石足らずしかなかった。藩士達の新天地での生活は過酷を極めた。飢えと寒さで命を落とす者も出る中、山川家では末娘のさきを海を隔てた函館の沢辺琢磨のもとに里子に出し、その紹介でフランス人の家庭に引き取ってもらうことにした。

官費留学

明治4年(1871年)、アメリカ視察旅行から帰国した北海道開拓使次官の黒田清隆は、数人の若者をアメリカに留学生として送り、未開の地を開拓する方法や技術など、北海道開拓に有用な知識を学ばせることにした。黒田は西部の荒野で男性と肩を並べて汗をかくアメリカ人女性にいたく感銘を受けたようで、留学生の募集は当初から「男女」若干名という例のないものとなった。

開拓使のこの計画は、やがて政府主導による10年間の官費留学という大がかりなものとなり、この年出発することになっていた岩倉使節団に随行して渡米することが決まった。この留学生に選抜された若者の一人が、さきの兄・山川健次郎である。健次郎をはじめとして、戊辰戦争で賊軍の名に甘んじた東北諸藩の上級士族の中には、この官費留学を名誉挽回の好機ととらえ、教養のある子弟を積極的にこれに応募させたのである。その一方で、女子の応募者は皆無だった。女子に高等教育を受けさせることはもとより、そもそも10年間もの間うら若き乙女を単身異国の地に送り出すなどということは、とても考えられない時代だったのである。

しかし、さきは利発で、フランス人家庭での生活を通じて西洋式の生活習慣にもある程度慣れていた。また、いざという時はやはり留学生として渡米する兄の健次郎を頼りにできるだろうという目論見もあって、山川家では女子留学生の再募集があった際に、満11歳になっていたさきを思いきって応募させることにした。この時も応募者は低調で、さきを含めて5人、全員が旧幕臣や賊軍の娘[注釈 2]で、全員が合格となった。

こうしてさきは横浜港から船上の人となる。この先10年という長い歳月を見ず知らずの異国で過ごすことになる娘を、母のえんが「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いから「捨松」と改名させたのはこの時である。また捨松がアメリカに向けて船出した翌日、大山弥助改め大山巌も横浜港を発ってジュネーヴへ留学している。





滞米生活


ヴァッサー大学在学中

人の女子留学生のうち、すでに思春期を過ぎていた年長の2人はほどなくホームシックにかかり、病気などを理由にその年のうちには帰国してしまった。逆に年少の捨松、永井しげ、津田うめの3人は異文化での暮らしにも無理なく順応していった。この3人は後々までも親友として、また盟友として交流を続け、日本の女子教育の発展に寄与していくことになる。

捨松はコネチカット州ニューヘイブンの会衆派の牧師レオナード・ベーコン (Leonard Bacon) 宅に寄宿し、そこで4年近くをベーコン家の娘同様に過ごして英語を習得した。この間ベーコン牧師よりキリスト教の洗礼を受ける[注釈 3]。 このベーコン家の14人兄妹の末娘が、捨松の生涯の親友の一人となるアリス・ベーコンである。捨松はその後、地元ニューヘイブンのヒルハウス高校を経て、永井しげとともにニューヨーク州ポキプシーにあるジーン・ウェブスターやエドナ・ミレイなど、アメリカを代表する女性知識人を輩出したヴァッサー大学に進んだ。しげが専門科である音楽学校を選んだのに対し、この頃までに英語をほぼ完璧に習得していた捨松は通常科大学に入学した。

当時のヴァッサー大学は全寮制の女子大学であった。東洋人の留学生などはただでさえ珍しい時代、「焼玉押さえ」など武勇談にも事欠かないサムライの娘・スティマツは、すぐに学内の人気者となった。しかしそれにも増して、捨松の端麗な美しさと知性は、同学年の他の学生を魅了して止まなかったのである。大学2年生の時には学生会の学年会会長に選ばれ、また傑出した頭脳をもった学生のみが入会を許されるシェイクスピア研究会やフィラレシーズ会にも入会している。

捨松の成績はいたって優秀だった。得意科目は生物学だったが、官費留学生としての強い自覚を持っていたようで、日本が置かれた国際情勢や内政上の課題にも明るかった。学年3番目の通年成績で「偉大な名誉」(magna cum laude ) の称号を得て卒業した(アメリカの大学を卒業した初の日本人女性)。卒業式に際しては卒業生総代の一人に選ばれ、卒業論文「英国の対日外交政策」をもとにした講演を行ったが、その内容は地元新聞に掲載されるほどの出来だった。

このとき北海道開拓使はすでに廃止されることが決定しており、留学生には帰国命令が出ていたが、捨松は滞在延長を申請、これが許可されている。卒業後はさらにコネチカット看護婦養成学校に1年近く通い、上級看護婦の免許を取得した。捨松はこの前年に設立されたアメリカ赤十字社に強い関心を寄せていたのである。


ヴァッサー大学1882年度卒業写真、4列目の左から5番目が山川捨松

アメリカからの帰国

捨松が再び日本の地を踏んだのは明治15年(1882年)暮れ、出発から11年目のことだった。新知識を身につけて故国に錦を飾り、今後は日本における赤十字社の設立や女子教育の発展に専心しようと、意気揚々と帰国した捨松だったが、彼女を待っていたのは失望以外のなにものでもなかった。

捨松がアメリカで過ごした11年間は、今でいえば小学校高学年から大学卒業までの期間であり、個人の人格や言語が完成される時期である。帰国した捨松は、ものの考え方から物腰まで、すべてがアメリカ式になっていた。在学中、捨松は親友の永井しげとは極力日本語を使うようにしており、母にも毎日のようにつたない日本語で手紙を書き綴っていたが、それでも帰国の頃には日本語が相当怪しくなっていた。日常会話は数ヵ月でなんとかなるようになったものの、漢字の読み書きとなるともうお手上げだった[注釈 9]。

そんな捨松の受け皿となるような職場は、まだ日本にはなかったのである。頼みの北海道開拓使もすでになく、仕事を斡旋してくれるような者すらいない状態、孤立無援の捨松を人は物珍しげに見るだけで、「アメリカ娘」と陰口まで叩かれる始末だった。しかも娘は10代で嫁に出す時代、23歳になっていた捨松は、当時の女性としてはすでに「婚期を逃した」年齢にあった。2歳年下の永井しげ(繁子)が早々に瓜生外吉と結婚する中、捨松は英語学者の神田乃武から縁談の申し出を受けるが、にべもなく断ってしまう。 この頃アリス・ベーコンに書き送った手紙には、「20歳を過ぎたばかりなのにもう売れ残りですって。想像できる? 母はこれでもう縁談も来ないでしょうなんて言っているの」と愚痴をこぼしている。

恋愛結婚


大山巌

ちょうどその頃、後妻を捜していたのが参議陸軍卿・伯爵となっていた大山巌だった。大山は同郷の吉井友実の長女・沢子と結婚して3人の娘を儲けていたが、沢子は三女を出産後に産褥で死去していた。大山の将来に期待をかけていた吉井は、我子同然に可愛がっていた婿のために、後添いとなる女性を探し求めはじめる。そこで白羽の矢が立ったのが捨松だった。

当時の日本陸軍はフランス式兵制からドイツ式兵制への過渡期という難しい時期にあった。フランス語やドイツ語を流暢に話す大山は、列強の外交官や武官たちとの膝詰め談判に自らあたることのできる、陸軍卿としては当時最適の人材だったが、この時代の外交の大きな部分を占めていたのは夫人同伴の夜会や舞踏会だった。アメリカの名門大学を成績優秀で卒業し、やはりフランス語やドイツ語に堪能だった捨松は、その大山の夫人として最適だった。

吉井のお膳立てで大山が捨松に初めて会ったのは、永井繁子と瓜生外吉の結婚披露宴でのことだった。そこで大山は一目で恋に落ちる。自他共に認める西洋かぶれだった大山は、パリのマドモアゼルをも彷彿とさせる捨松の洗練された美しさにすっかり心を奪われてしまった。

しかし吉井友実を通じて大山からの縁談の申し入れを受けた山川家は、仇敵・薩摩人との縁談など以ての外と即座に断ってしまう。しかし大山も粘った。吉井から山川家に断られたことを知らされると、今度は従弟の西郷従道を山川家に遣わして説得にあたらせた。兄・浩の「山川家は賊軍の家臣ゆえ」という逃げ口上も「大山も自分も逆賊(西郷隆盛)の身内」という従道には通じなかった。従道が連日説得にあたるうちに、大山の誠意が山川家にも伝わり態度も軟化し、最終的には浩から「本人次第」という回答を引き出した。

これを受けた捨松は「(大山)閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」と、デートを提案し、大山もこれに応じた。捨松は初めは濃い薩摩弁を使う大山が何を言っているのかさっぱりわからなかったが、英語で話し始めるととたんに会話がはずんだ。2人には親子ほどの歳の開きがあったが、デートを重ねるうちに捨松は大山の心の広さと茶目っ気のある人柄に惹かれていった。交際を初めてわずか3ヵ月で、捨松は大山との結婚を決意した。この頃アリスに書いた手紙には捨松は、「たとえどんなに家族から反対されても、私は彼と結婚するつもりです」と記している。

明治16年(1883年)11月8日、大山巌と山川捨松との婚儀が厳かに行われた。その1ヵ月後、完成したばかりの鹿鳴館[注釈 12]で、大山夫妻は盛大な結婚披露宴を催した。 千人を超える招待者でごった返す披露宴、普通の新婦なら気が動転して会話もままならないような状況の中で、気さくな捨松には誰もが目を止め、話しかけ、また捨松の話に耳を傾けた。

活躍の場

近世以後ヨーロッパで確立された外交プロトコルでは、夜会や舞踏会が大きな役割を果たしていたが、その風潮は19世紀後半になってもあまり変わってはいなかった。列強の外交官は夫人同伴で食事や舞踏を楽しみ、時にはそうした席で重要な外交上の駆け引きも行う。幕末から明治初年にかけて欧米を視察した日本人にとって、それはひとつの大きな衝撃だった。日本人の女性がまだ人前での立ち振る舞いにまったく慣れていなかった時代、新政府の高官の多くが即戦力となる玄人の芸者や娼妓を正妻として迎えた理由のひとつもここにある。

早期の条約改正を国是としていた明治政府は、こうした宴席外交を行うことの出来る施設の必要性を痛感していた。当時は、別に正規の用途がある施設をその時々の必要に応じて借り上げる形で間に合わせていたが、代替施設はやはり不便だった。そこで外務卿の井上馨が中心となって、こうした代替施設に代わる恒常の官立社交場を新築することを決定した。それが鹿鳴館である。


鹿鳴館時代の大山捨松


『於鹿鳴館貴婦人慈善會之圖』 (当時の錦絵新聞より)

夜会や舞踏会だけではない。ある時有志共立東京病院を見学した捨松は、そこに看護婦の姿がなく、病人の世話をしているのは雑用係の男性が数名であることに衝撃を受ける。そこで院長の高木兼寛に自らの経験を語り、患者のためにも、そして女性のための職場を開拓するためにも、日本に看護婦養成学校が必要なことを説き、高木にその開設を提言した。高木も看護婦の必要性は早くから認めていた[注釈 14]が、如何せん財政難で実施が難しい状況だった。

それならば、と捨松は明治17年(1884年)6月12日から3日間にわたって日本初のチャリティーバザー「鹿鳴館慈善会」を開いた。捨松は品揃えから告知、そして販売にいたるまで、率先して並みいる政府高官の妻たちの陣頭指揮をとった。 3日間で予想を大幅に上回る収益をあげ、その全額(当時の金額で8,000円)を共立病院へ寄付して高木兼寛を感激させている。この資金をもとに、2年後には日本初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所が設立された


その中で、一人水を得た魚のように生き生きとしていたのが捨松だった。英・仏・独語を駆使して、時には冗談を織り交ぜながら諸外国の外交官たちと談笑する。12歳の時から身につけていた社交ダンスのステップは堂に入ったものだった。当時の日本人女性には珍しい長身と、センスのいいドレスの着こなしも光っていた。そんな伯爵夫人のことを、人はやがて「鹿鳴館の花」と呼んで感嘆するようになった。

夜会や舞踏会だけではない。ある時有志共立東京病院を見学した捨松は、そこに看護婦の姿がなく、病人の世話をしているのは雑用係の男性が数名であることに衝撃を受ける。そこで院長の高木兼寛に自らの経験を語り、患者のためにも、そして女性のための職場を開拓するためにも、日本に看護婦養成学校が必要なことを説き、高木にその開設を提言した。高木も看護婦の必要性は早くから認めていたが、如何せん財政難で実施が難しい状況だった。

それならば、と捨松は明治17年(1884年)6月12日から3日間にわたって日本初のチャリティーバザー「鹿鳴館慈善会」を開いた。捨松は品揃えから告知、そして販売にいたるまで、率先して並みいる政府高官の妻たちの陣頭指揮をとった。 3日間で予想を大幅に上回る収益をあげ、その全額(当時の金額で8,000円)を共立病院へ寄付して高木兼寛を感激させている。この資金をもとに、2年後には日本初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所が設立された。

日清・日露の両戦争では、大山巌が参謀総長や満州軍総司令官として、国運を賭けた大勝負の戦略上の責任者という重責を担っていた。捨松はその妻として、銃後で寄付金集めや婦人会活動に時間を割くかたわら、看護婦の資格を生かして日本赤十字社で戦傷者の看護もこなし、政府高官夫人たちを動員して包帯作りを行うなどの活動も行った。また積極的にアメリカの新聞に投稿を行い、日本の置かれた立場や苦しい財政事情などを訴えた。日本軍の総司令官の妻がヴァッサー大卒というもの珍しさも手伝って、アメリカ人は捨松のこうした投稿を好意的に受け止め、これがアメリカ世論を親日的に導くことにも役立った。アメリカで集まった義援金はアリス・ベーコンによって直ちに捨松のもとに送金され、さまざまな慈善活動に活用された。

近代日本におけるチャリティー企画やボランティア活動の草分けは、この大山捨松である。

女子教育

日本に帰ったら教職に就いて日本の女子教育の先駆けとなる、というのが捨松の留学時代の夢だった。しかし政府の要職にある大山巌と結婚したことで、彼女自身が教壇に立つことはあり得なくなった。それでも捨松の女子教育にかける熱意は冷めることなく、生涯にわたって陰に日向にこれを支援している。

早くも結婚の翌年の明治17年(1884年)には、伊藤博文の依頼により下田歌子とともに華族女学校(後の学習院女子中・高等科)の設立準備委員になり、津田梅子やアリス・ベーコンらを教師として招聘するなど、その整備に貢献している。しかしそうして出来上がった華族女学校では古式ゆかしい儒教的道徳観にのっとった教育が行われ、捨松はまたしても失望を味わう。

その後、明治33年(1900年)に津田梅子が女子英学塾(後の津田塾大学)を設立することになると、捨松は瓜生繁子ともにこれを全面的に支援した。アリスも日本に再招聘して、今度は自分たちの手で、自分たちが理想とする学校を設立したのである。教育方針に第三者の容喙を許さないという立場から、津田が誰からの金銭的援助もかたくなに拒んでいたこともあり、捨松も繁子もアリスもボランティアとして奉仕した。それでも捨松は英学塾の顧問となり、後には理事や同窓会長を務めるなど、積極的に塾の運営にも関与している。生涯独身で、パトロンもいなかった津田が、民間の女子英学塾であれだけの成功を収めることが出来たのも、捨松らの多大な支援があったがことが大きな理由のひとつだった。


旧友の再会  左から、津田梅子、アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松

晩年と死


晩年の捨松

捨松は大山との間に2男1女に恵まれた。これに大山の3人の連れ子を合せた大家族となったが、自らが2男5女の家に生まれ、その後ベーコン家の14人兄弟に揉まれて成長した経験のある捨松にとって、賑やかな家庭は幸せだった。40代半ばまで跡継ぎに恵まれなかった巌に、2人の立派な男子をもたらしたことも誇りだった。

巌は日清戦争後に元帥・侯爵、日露戦争後には元老・公爵となり、位人臣を極めた。それでいて政治には興味を示さず、何度総理候補に擬せられても断るほどで、そのため敵らしい敵もなく、誰からも慕われた。晩年は第一線を退いて内大臣として宮中にまわり、時間のあるときは東京の喧噪を離れて愛する那須で家族団欒を楽しんだ。

長男の高は「陸軍では親の七光りと言われる」とあえて海軍を選んだ気骨ある青年だったが、明治41年(1908年)、 海軍兵学校卒業直後の遠洋航海で乗り組んだ巡洋艦・松島が、寄港していた台湾の馬公軍港で原因不明の火薬庫爆発を起こし沈没、高は艦と運命を共にした。

次男の柏は近衛文麿の妹・武子を娶り、大正5年(1916年)には嫡孫梓が誕生したが、その直後より巌は体調を崩し療養生活に入る。長年にわたる糖尿の既往症に胃病が追い討ちをかけていた。内大臣在任のまま同年12月10日に満75歳で死去した。

巌の国葬後、捨松は公の場にはほとんど姿を見せず、亡夫の冥福を祈りつつ静かな余生を過ごしていたが、大正8年(1919年)に津田梅子が病に倒れて女子英学塾が混乱すると、捨松は自らが先頭に立ってその運営を取り仕切った。津田は病気療養のために退任することになり、捨松は紆余曲折を経て津田の後任を指名したが、新塾長の就任を見届けた翌日倒れてしまう。当時世界各国で流行していたスペイン風邪だった。そのまま回復することなくほどなく死去。満58歳だった。

洋風夫妻
大山巌・捨松夫妻はおしどり夫婦として有名だった。

ある時新聞記者から「閣下はやはり奥様の事を一番お好きでいらっしゃるのでしょうね」と下世話な質問を受けた捨松は、「違いますよ。一番お好きなのは児玉さん(=児玉源太郎)、二番目が私で、三番目がビーフステーキ。ステーキには勝てますけど、児玉さんには勝てませんの」と言いつつ、まんざらでもないところを見せている。「いえいえそんなこと」などと言葉を濁さず、機智に富んだ会話で逆に質問者の愚問を際立たせてしまう話術も、当時の日本人にはなかなか真似のできないものだった。

巌は実際にビーフステーキが大好物で、フランスの赤ワインを愛した。大食漢で、栄養価の高い食物を好んだため、従兄の西郷隆盛を彷彿とさせるような大柄な体格になり、体重が100kgに迫ることもあったという。捨松はアリスへの手紙の中で「彼はますます肥え太り、私はますます痩せ細っているの」と愚痴をこぼしている。

巌は欧州の生活文化をこよなく愛し、食事から衣服まで徹底した西洋かぶれだった。日清戦争後に新築した自邸はドイツの古城を模したもので近所を驚かせたが、その出来はというとお世辞にも趣味の良いものとは言えず、訪れたアリス・ベーコンにも酷評される有様だったが、当の巌は人から何といわれてもこの邸宅にご満悦だった。しかし捨松は自分の経験から子供の将来を心配し、「あまりにも洋式生活に慣れてしまうと日本の風俗に馴染めないのでは」と、子供部屋だけは和室に変更させている。

一般の日本人から見れば浮いてしまう「西洋かぶれ」の巌と「アメリカ娘」の捨松であったが、しかしそれ故にこの夫婦は深い理解に拠った堅い絆で結ばれていた。夫妻の遺骨は、2人が晩年に愛した栃木県那須野ののどかな田園の墓地に埋葬されている。


大山捨松公爵夫人

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2016年9月8日木曜日

「トモダチ作戦支援基金」設立へ 小泉純一郎 元内閣総理大臣 記者会見2016年9月7日

小泉純一郎元首相が記者会見 「トモダチ作戦で被ばく」の米兵救済へ基金創設(2016年9月7日)



2016/09/07 にライブ配信

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小泉純一郎元首相がトモダチ基金創設で会見(全文1)被ばく米兵救済のため 1/3

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小泉純一郎元首相がトモダチ基金創設で会見
小泉元首相は、2011年3月の福島第一原発事故をきっかけに原発の危険性に対して気づいたとして、以降、「原発ゼロ」を訴えている。

東日本大震災の救助や復興を支援した米軍の「トモダチ作戦」に参加した元米兵らが、同原発事故で被ばくしたとして東京電力を相手取り集団訴訟を起こているが、7月にはそうした米兵を救済するための基金の立ち上げた。


トモダチ作戦とは? 城南信用金庫相談役、城南総合研究所長の吉原氏

司会:吉原さん。

吉原:先に。

司会:はい。

吉原:城南信用金庫相談役、城南総合研究所長をしております吉原と申します。今回のトモダチ作戦の記者会見に当たりまして、経緯をお話しさせていただきます。小泉先生はかねてより、「ロナルド・レーガン」をはじめとするアメリカの兵士の方々が3.11のときに日本の人たちを救うために一生懸命努力してくださったということを気に掛けており、その中に健康被害を被っている方々がいて、大変な深刻な事態に陥っているということをご存じでした。そしてこれにつきましてぜひ、興味を持って調べるようにと私どもにご指示がありまして、そしてある会合におきまして、ちょうど3月28日でございましたけれども、エイミー辻本さんと出会いまして、いろいろ、そのときにお話を伺いました。そして、この放射性、放射能が、大量の放射性物質が福島から太平洋のほうに流れて、約90%以上の放射性物質が流れたそうですけれども、それを、直撃を浴びたのが救助に当たっていたアメリカの若い男女の兵士の方々に、直接被害が及んでしまったことを伺って。

女性:吉原さん、通訳を入れさせてください。

吉原:あ、ごめんなさいね。日本の言葉でした。

通訳:(英語)。どうぞ、続けてください。

吉原:はい、ごめんなさい。それで、3月28日にエイミー辻本さんとお会いしたわけです。そしてさまざまなお話を伺いまして。そして、これはぜひお見舞いに行かなくてはいけない。日本のために尽くしてくれたアメリカの若い方々の、病気になっていることに対して大変心を痛めて、人道的な観点から、ぜひお見舞いに行こうということで、私どもにご命令されました。

そこで城南総合研究所といたしまして、小泉先生はその名誉所長でいらっしゃいますのでご一緒にサンディエゴへ行って、大勢の兵士の方々に直接お話を伺って今回の活動に至ったわけでございます。

これから先生からお話があると思いますが、本日の記者会見はこのトモダチ作戦に関する記者会見と伺っておりますので、できればご質問につきましてはそれに集中させていただければと考えておりますので、よろしくお願いいたします。

東日本大震災時、救援活動の米兵が東北沖合で被ばく

小泉:ああ、ああ。大丈夫かな。ああ、これでいいか。これで。
ご紹介いただきました小泉です。本日はお招きいただきましてありがとうございます。今日は60分ぐらい話して、あとの30分は質問に答えると、そういうことのようです。私はここへ初めて来たと思ったんですが、今、写真を見たら現役の総理のときに1回来てるんですね。最近は過去のことをほとんど忘れてますけどね。ちょっと気に掛かってるのは、最近ね、何を言おうとしてるのかも忘れることあるんですよ。

今日は1時間といってもブライアンさんが通訳してくれますから、中身は30分のようですので。トモダチ作戦と、それから私は原発ゼロ運動をしてますから、その点についてできるだけ簡単にお話しして、あとは質問を受けたいと思っております。

私は今日、通訳していただくブライアンさん、そして、奥さんのエイミーさん、ご子息のジュリアンさん、3人の皆さんと、それから、吉原さん、城南信金のですね。一緒にサンディエゴにさる5月、4日間の予定で伺いました。それはエイミーさんから、この救援作戦で被害に遭った兵士たちがかなり出てきてるんだという話を聞いて、それであまり知られてないっていうことを聞いたんですね。アメリカのメディアにおいても、日本のメディアにおいても知られてないと。

そこでエイミーさんいわく、元総理の小泉さんがサンディエゴに行って、じかに被害者の兵士の方々と話し合えば、あるいは実情を聞けば、少しはメディアでも報道してくれるんじゃないかという話だったんです。そういう本当にトモダチ作戦で放射能による被害に遭った兵士がそんなに多くいるのかと、それはやっぱり、人から聞いたよりも、じかに聞いたほうがいいかなと思って、行こうかという話になったんです。

それは3月のことでした、話を聞いたのは。そこに城南信金の吉原さんが同席してたもんですから、私は城南信金のシンクタンク、そこの名誉所長を仰せつかってるんですね。初代の所長は、私の慶應の時代の先生だった加藤寛先生、政府の税制調査会長をしていた経済学者の加藤寛先生でした。

通訳:その加藤寛先生は関係はどういう。

小泉:私の学生時代の先生、教授ね。

通訳:ああ、そうですか。はいはい。

小泉:そして、政府の税制調査会の会長もされてた。

通訳:その方と。

小泉:その方が城南信金の所長をしてた。

通訳:ああ、所長。

小泉:シンクタンクの所長、初代の。

通訳:ミスター加藤何先生ですか。

小泉:加藤寛。

通訳:その2人でこの問題に。

小泉:加藤寛先生っていうのはね、日本人は全部知ってますよ。名前聞けば。有名な人だから。もう説明する必要ない。私も総理時代、経済政策等でいろいろご指導いただいた先生です。その方が亡くなったあと、小泉さん、2代目の名誉所長、どうかという吉原さんの話で引き受けたんです。その吉原さんがブライアンとエイミーさんを紹介して、この会談になったんですね。初めてお会いした、3月。

で、サンディエゴに行って、じかに兵士の話を聞いてくれっていう話を聞いたときにちょっと考えたんです。そしたら吉原さんがすぐね、ホテル代と飛行機代は私が出しますって言ってくれたんです。城南のシンクタンクの名誉所長をしていますけども、給料は一切もらってないんですけども。そこまで熱心に言っていただくんだったらやっぱり聞く必要があるなと思ってね、行ったんですよ。



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小泉純一郎元首相がトモダチ基金創設で会見(全文1)被ばく米兵救済のため 2/3

 放射能が出てるのを知らずに、防護服を着ずに救援活動

5月。で、4日間ですね。10名のその健康被害に遭った兵士の皆さんとお話をいたしました。だいたい20代、30代の方ですね。その方々がトモダチ作戦で韓国に行く途中、日本政府からの要請で「ロナルド・レーガン」がすぐ東北へ行けという指令を受けたと。で、東北沖合で停泊して、ヘリコプターで被災地等に行ったり来たりしながら、救援活動に励んでくれたんです。約1カ月間、そこに滞在しながら、さまざまな救援活動に励んでくれて、その後、しばらくたってから、体の調子がおかしいという状況だったようです。

半年後、1年後、病院とかお医者さんに診てもらったんだけども、原因不明と言われたと。そのうち、日がたつにつれて、鼻血が止まらない、下血が止まらないと、そういう状況のようだったようです。

通訳:あれは下痢ですか。

小泉:下痢ですね。下痢っていうか。血も出てる。下のほうからも血が出てるわけです。で、これは放射能の被害じゃないかなというふうにだんだん感じてきたようですよ。で、3月にこの話を聞いたときに、ブライアンさん、エイミーさんが、あの「レーガン」でその状況を映していたビデオがあったんですね。残ってんです。ビデオも拝見しましたよ。で、彼らは放射能が来てると知らないもんですから、あのときはメルトダウン、福島の原発が起きたとき、海のほうへ風が吹いてたんですね。そこで彼らはまさか放射能が出てるの知らないもんですから、防護服を着てないで救援活動してたわけです。で、帰ってきたら、原子力空母ですから当然、ガイガーカウンターなり、放射能測定器も乗せてますよね。それが鳴りだしてるわけですよ。すぐ服を脱げ、シャワーを浴びたっていう、そういうような話も、ちゃんと声も、音声も入ってるんですよね。

だから、東北地方の人よりも放射能の風、放射能プルームっていうんですか。それが海に行ったもんですから、もろに放射能汚染の中にいるんじゃないか、状況、恐れてたわけですね、みんな。話に出てるわけですよ。ことによると、これ俺たちは放射能の中にいるんじゃねえかっていう。考えてみれば、服を脱いでシャワー浴びろって言われても、今から考えると、シャワーを浴びるの、海水ですから、海水の塩分を除くシャワーを浴びてたと。放射能の物質は除けないんですよね。なおかつ、料理は海水を真水にして、淡水にして、海水を使って料理してんですから、当然放射能の汚染された海水です。海水を、塩分だけ取った真水ですけども放射能物質は残っている、汚染された、汚染水によって料理してたわけですよね。それを食べてるわけですよ。

で、日がたつにつれて、病気の症状は重くなる。しかし、この病気は放射能の被害によるものとは断定できないというのが、病院においても医者においても共通の言葉だったようです。彼ら、じかに会ってお話聞いてたんですが、彼らは海兵隊ですから。聞くところによると、海兵隊っていうのは一番厳しい訓練をされる、要求される部隊のようですね。だから、みんな頑健な兵士だったんですよ。20代、30代ですから、頑健な、健康状態良くなきゃ、海兵隊に採用されないわけですよね。その頑健な兵士がもう軍隊の隊員としての活動も十分できなくなった。日々、体の症状が悪くなってるのはよく分かってる。そういう状況の話をじかに伺いました。

私が行ったときは、もうすでに7名の方が病気で亡くなったと。300人もその病気で苦しんでる兵士たちが出てきたと。だからそういう話で、サンディエゴに来てくれるっていう人は限られてたようですね。さまざまな病状の方から聞こうと思ったんですけども、最後、もう1人、来るという予定の人が病状が重くて来れないという人、その人はできませんでしたけども、だいたい症状の比較的軽い人が来てくれたようです。

女性兵士の1人で、妊娠しながらその救援活動をしていた女性がいたと聞いています。その方は本人はみえませんでしたけども、生まれたときは障害児で、もうその子供は亡くなったと。本人も今、病気で除隊しているという話でした。で、それぞれ若い兵士が頑健な体にあるにもかかわらず、思いがけない放射能に汚染されて、病状に苦しんでいる姿。会ってみて1つ驚いたことには、病気を抱えながらも諦めというか、何か明るいんですよね。暗くないんですよ、みんな。仕方がないって言って。

で、しかし、軍隊の隊員として病気が重くなっていくと、正常な活動が出来ない、普段の。で、自分から除隊、体が思わしくないので除隊した人もいるし、あるいは外から見ててもこれはもう活動できないだろうと思えば、除隊せざるを得ない。そういう状況のようですね。で、除隊すると、お医者さんにかかった場合、医療保険が利かないという人がいましたね。

通訳:その病気の。

小泉:兵士の中ね。自分が除隊させられると、除隊すると、今まで軍隊にいた限り、軍の病院で面倒見てくれると。しかし、除隊しちゃうともう軍の病院とは関係なくなってる。自分で行かなきゃいけない。民間の病院に。

で、どちらかと言うと海兵隊委員の皆さんは比較的、裕福ではない家庭の方が多いと。日本のように国民皆保険じゃないですから、アメリカは。医者にかかるだけで相当なお金が掛かるようです。あの頑健な兵士がね、こういう活動できないで、苦しんでる姿をどうしてもっと早く知らなかったのかと。またあまり新聞で報じられてないのはなんでなのかと、不思議に思いましたね。

400人を超える兵士が放射能被害と思われる病に苦しんでいる

ロナルド・レーガン空母にいる乗組員は5000人ぐらいいるようですね。で、そのほか空母ですから、付随する艦艇も一緒に来てますよ。で、あとで聞いたことによると、あのトモダチ作戦、1カ月か2カ月の間に米軍は日本政府の要請に基づいて、海兵隊のみならず海軍、陸軍、空軍、約2万人を超える兵士があのトモダチ作戦に参加して、救援活動に励んでくれたようです。

しかし放射能があれほど漏れて、防護服着ないまま活動していた兵士が放射能被害によると思う病に苦しんでるっていうのをじかに聞いて、これは放っておけないなって私は思ったんです。で、兵士たちは淡々と話してましたね、私は任務としてこういう活動をしていると、ヘリコプター乗った、あるいはヘリコプターを整備していたとか、そういう任務について淡々と話していましたよ。しかしこの病気になっちゃって、まあ、仕方がないなというわけですね。

いや、これもね、私は行くときね、300人って聞いたのもびっくりしたんです。300人も出てるなと、病気に苦しんでる人がね。で、お見舞いに行くんだから行く前に吉原さんと相談してね、お見舞い金、なにがしか持ってかなきゃ悪いなと、お菓子って皆、持っていったってしょうがないだろうと思って、200~300万円持っていきゃいいかなと思ったんですよ。10人かそこらじゃないかなと思ったら、300人超えてるって聞いてね、こりゃ200~300万円だと恥ずかしくて恥かいちゃうなと思って、じゃあ手ぶらで聞こうと。何も持ってかない、聞いただけです。

ところが行ったときは300人、超えたと。帰ったとき、4日間ですけどね、帰るときは400人を超えたっていう話を聞いたんです。それで話を聞いて、じかにね、また聞きじゃなくて、じかにその病気で苦しんでる兵士を聞いて、ああ、お気の毒ですね、とか、かわいそうですねって言って、それでおしまいにするわけにはいかないなと思ったんです。

で、今、兵士たちは裁判を起こしてますよね。だから兵士はいかなる被害に遭ってもアメリカの政府を訴えることはできないという、そういうアメリカの側ではそういう制度のようですから、東電とGEとか会社を訴えているようです。それは日本で裁判するのか、アメリカで裁判するのかっていうのを今、争っている最中のようです。

で、私は5月にじかに、サンディエゴに行く前に、外務省の北米局長を訪ねてこういう自体だけど知ってるかと聞きました。聞いてみると、事情は正確に把握していたようです。

通訳:把握して? 把握してなかった?

小泉:いや、私が行く前に北米局長を訪ねて、こういう話なんだけども外務省は知っているか、という話をしたんです。北米局長に。そしたら知っていると。じゃあじかに、私は兵士たちと、これから行くから、サンディエゴに行って、じかに兵士に聞いてまた話するって言って、行った。そして帰ってきてからまた報告に行きましたよ。

しかるに同情はしてくれましたけどね、北米局長は。ああ、せっかくトモダチ作戦に、救援してきた方々がこういう苦しい事情っていうのは本当に残念だ、かわいそうだという話はしてましたけども、政府としてはこれは何もできないんだという話でした。そこで、政府の考え方も分かりますし、それからアメリカの上下両院も国防総省に、どうなってるのかっていう、聞いてるんですよね、アメリカで。で、アメリカ国防総省の、その問いに対する返答が、だいたい東電とかGEと、言ってることと同じことでした。健康被害、これは放射能による健康被害とは断定できないという結論のようです。



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小泉純一郎元首相がトモダチ基金創設で会見(全文1)被ばく米兵救済のため 3/3


政府は何もできず 治療費に役立てられるよう7月5日に支援基金を立ち上げた

しかし、医者でない私が言うのもなんですけどね、断定できないにしても、頑健な兵士がこれほどの被害を浴びて、鼻血とか下血が出て、しかもレントゲンを撮ると内部に腫瘍ができてるとか言われている状況。これを見ればね、だいたい、これは放射能による被害だっていうのは分かりますよ、常識で。

そこで、政府は何もできないんだけども、じかに聞いた私としては何か自分にできることをやらなきゃいかんと思ったから、そうだなと。民間でやる、今、一番苦しんでる人にできたのは、なにがしかの治療に役立ててくれるような基金を立ち上げて、わずかでも感謝の気持ちを表さなきゃいかんなと思って、この「トモダチ作戦被害者支援金」を立ち上げたんです。私は政府の人間じゃありませんから、もう一民間人ですから、そんな資金もないし、できるだけ多くの国民にこの実情を分かってもらって、少しでも寄付してもらえればいいなと思って、7月5日にこの支援金を立ち上げました。

まあ、200~300万円じゃ笑われちゃいますからね。なんとか1億円を集めて、ミリオンダラーは集めてね、それを今後の治療かなんかに役立ててもらえばなと思って今、吉原さんとかと協力しながら募金活動を始めております。それでも足りないことは分かってますけども、感謝の気持ちだけでも。日本人が感謝をしてるんだと、帰ったときはトモダチ作戦、ありがとう、日本国民が本当に称賛の声でしたね。トモダチ作戦に参加してくれた米軍の兵士たちに。政府も称賛の声を上げて、ありがとう、ありがとう、感謝の念を伝えてましたよ。しかし実際、実情を聞いてね、ああ、何もしてない、これはまずいなと思って、そのような基金を立ち上げたわけです。だらだら長く続けるわけにはいかないです、政府でもないし。ただ気持ちだけでも少し形に示そうかなと思ってこの基金を。来年の3月31日までに1億円ぐらい集めて、お見舞い金として渡そうかなと思って今、その活動を進めています。

で、私のこの記者会見をテレビで見て、感銘を受けたと言って、いち早く協力してくれたある有名な人がいます。その人は建築家の安藤忠雄さんです。安藤忠雄さんから連絡があってね、あ、小泉さん、協力するよと自分も。1000万ぐらい寄付しようかって言うんですよ。いや、1人でね、そんな出せんのかって言うと、いやいや、安藤さんいわく、俺が1人で出すんじゃないよと。1万円で1000人集める。1万円の会費を取って、1000人の講演会を開く。小泉さん来てくれれば、1000人集めるから。1万人が1000人だと1000万円じゃねえかと。なるほどなと。しかし、1万円お金を出してね、私の話を聞いてくれる人なんか1000人もいないよって言ったら、いやいや、俺、集めてみせる、大阪で。

さる8月18日、大阪で、その日本を考える会で、小泉が講演するというチラシを作ってね。会費、入場料1万円。これは全部トモダチ作戦に寄付しますというチラシを作ってくれたんです。それでも行く前もだいたい、券はね、1000枚買ってくれる人がいたとしても、10枚、20枚買ってくれる人もいるでしょう。しかし実際に1000人、その会場に来てくれんのか心配しな、でも実際、会場、当日、1000人の椅子が足りないっていうんですよ。椅子が足りないからって300足した。1300人。1300ぐらい集まっちゃったんです。大したもんだなと。こういう人はいないだろうと、安藤さんみたいに思ったら最近、安藤さんの話を聞いたと。東京でやりたいっていう人が出てきまして、なるほど、そのチラシを参考にしたいから教えてくれ。ありがたいなと思ってます。

今、だいたい4000万近くそういう基金が集まりましたから、なんとか来年までには1億円、達成しようと思って頑張ってます。トモダチ作戦についてはこんなところで。あ、そうそう、額は難しいね。400万と4000万は違うから。

複数:(笑)

【連載】小泉純一郎元首相がトモダチ基金創設で会見 全文2へ続く

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 小泉元首相がトモダチ基金創設で会見(全文2)原発は安全第一ではなかった
 
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記事

小泉元首相がトモダチ基金創設で会見(全文2)原発は安全第一ではなかった 1/2

今、なぜ原発ゼロの運動してるのか

小泉:今日はせっかくの機会だから、私はなぜ原発ゼロの運動してるかっていうのも、時間がもうちょっとあるから話しますよ。

 私に対する批判の一番大きな点は、なぜ総理のときは原発必要だって言っていながら、辞めたら原発必要ないと言い出したのかという、この批判です。それはね、専門家の意見を信じてたんですね。まず原発は安全。コストは他の電源に比べて一番安い。CO2を出さない永遠のクリーンエネルギー。この3つですよね、専門家の言うのは。確かに日本は資源をほとんど外国から輸入している。文明生活を送るためにはこれからも原発が必要だという意見を信じてたんです。

 しかし5年前の3月11日のあの東北の大震災、地震、津波、そしてメルトダウン、福島原発の。これを見て、私は自分で勉強し直しましたよ。

 これを調べていくうちに、この3つの推進論者、必要論者が言ったのは全部うそだと分かったんです。原発の導入の経緯、実情、歴史、それ調べてみてね、よくもこんなうそを信じていたと自分を恥じました。昔からこういう言い古されたことはありますよ。過ちを改むるにはばかることなかれ、過ちを改めざる、これを過ちという。過ちと分かったんだから改めなきゃいかんと思って、この原発ゼロ運動を始めたんですね。

 まずね、原発導入されて50年、その間、大きな事故は3つありましたよ、世界で。まず最初、アメリカ、スリーマイル島。スリーマイル、1979年。スリーマイルね、これアメリカですよ、原発の本場。依然としてあの地域、人住めませんよね。あのスリーマイル島には人が住めませんよ、今でも。

 1986年、チェルノブイリ、これもまた原発事故。今でもひどい状況ですよ。最近チェルノブイリ30年たったけども、25年目にあのチェルノブイリ事件において結構病人が出ている、後追いしていたお医者さんたちがいたわけですね。その資料もいろいろ見てみました。そのチェルノブイリの実情、健康被害を調べていって、25年だから子供も大人になってます。そういう状況を日本の北陸の医師会が日本語に訳してるのが私のところに送ってきましたよ。訳されてるのが、日本語に訳されてる。1986年ですからまだソ連崩壊の前です。隠されていたことも結構あったと。だからその当時の甲状腺がんとか白血病っていうのは大人に出てましたけど、その子供が今20代、30代になってます。その子供にも影響が出てるのは分かってきましたね。

 スリーマイル、チェルノブイリ事故が起こったあとも日本の原発は違うんだ、日本のは絶対安全なんだと、多重防護されているんだと、これが専門家の意見でした。ところが5年前のあの福島のメルトダウン、これはもう最悪のチェルノブイリ級、それに勝るとも劣らないそういう被害でしょう。日本は大丈夫だと、そうじゃなかったんですよ。今、50年間でこれだけ大きな事故が起きてるんですけども、それ以外に、人為的なミス、機会の故障、これ数え上げればもう切りがない程、原発っていうのは事故なり故障なり、ミスを起こしてるんですよ。

安全第一と言いながら、収益第一だった

考えてみれば今、よく言われます、推進論者からね。小泉さん、機械に絶対安全なんかあり得ませんと。機械に、産業に絶対に安全なものはないと言っている。飛行機にしても自動車にしても、みんな絶対安全でやってるんだけども事故は起こるんだとそう言ってますよ。そのリスクと恩恵。それを勘案しながらさまざまな技術が発展してきたんだ。しかし考えてみれば、原発っていうのは飛行機とか自動車の事故とは、桁外れに違う大きな被害を現す。ひとたび事故が起これば。第一、福島のメルトダウンにおいても、広島、長崎の原爆を落とされたあとの放射能の、放射能に関して言えば100倍以上の放射能が拡散したっていうんですから。

 いまだにあの福島近辺の住民の皆さんは帰れませんよ。これから何年たったら帰れるのか分かんない。大人の人も5年、10年いけば年取っちゃって帰れない。若い人は移ったところで新たな生活ができる、帰りたくない。ふるさとがなくなっちゃうっていうのが分かったわけですね、ひとたび事故が起きたら。

 安全第一と言いながら、最近分かった。収益第一なんですよ、東電も原発会社も。安全第一じゃない。いい例が、安全第一じゃなくて、収益。利益第一。経営第一、利益第一。安全二の次。

 社長も原発会社の経営が第一なんですよ、安全よりも。それが分かったんです。あの福島のメルトダウンが起きる前から、これは安全対策が不十分じゃないかという声はあったんです。しかし、いや、チェルノブイリと違って、1つ壊れてもまだ多重防護してるから大丈夫だというのが専門家の答えだったんです。いい例が、あの事故が起こった直後、原発は原則廃炉40年、40年たったものはもう廃炉にしろ。なぜか。長い年月たてばあの原子炉は劣化する。事故が起こりやすくなるから、40年でもう廃炉しなきゃいかん。今、変わっちゃったよ。今は例外じゃなくなっちゃった。ほとんど申請してくれば政府も認めるようになった。
 原発を動かさないと利益が上がってこない、原発会社は。ところが。
 時間取る、時間取る、時間取るから。なぜならね、どこまで話したっけな。

複数:(笑)




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小泉元首相がトモダチ基金創設で会見(全文2)原発は安全第一ではなかった 2/2

日本は原発ゼロでやっていける
 
小泉:そうそう。40年がね、60年まで認めてくれとか言ってきてるわけですよ。ところが、小泉さん、原発ゼロなんて無責任ですよ。3年前、私が原発ゼロ運動していたとき、財界のある人が言ってきましたよ。2~3カ月ならともかく、ずっとゼロにする、将来先ならばあれだけど、直ちにゼロっていうのはね、それは寒い冬が来れば、暑い夏が来れば、みんな国民も電気がほしくなる。冷房、暖房、さまざまな電気のありがたさが分かると。そんなのは長くは続きませんよと言ってましたよ。

 ところがどうですか。2011年3月、事故が起こった。それ以降、2013年の9月まで、原発は日本、たった2基しか動いてなかったんですよ。2013年9月から去年の9月、2年間、まったくゼロですよ。去年の9月から、2016年、今、9月、伊方の原発が1基動いたから3基といっても、10月、12月は川内が止まりますから、ということは1基しか動かないんですよ、1基。ちゅうことは2基か1基、これは推進論者がばかにしていた自然エネルギー、自然エネルギーで原発の電源、30%、原発になったのを、2~3%の自然エネルギーに原発の代わりになるわけはないだろうと批判してたんですよ。

通訳:今が2%ですか。

小泉:原発、今までね、30%の電源を供給していた。事故前は、事故前は。ところが5年以上たって、たった2基しか動いていない。にもかかわらず、暑い夏も寒い冬も、東京も大阪も全国、1つも停電が起きてない。ゼロでやっていけるんですよ、日本は。ゼロ宣言してないけども、原発ゼロで5年以上、なんの停電も起きない。電気、余っちゃってんの。電気余ってんの。

複数:(笑)。

通訳:電気の、料金が?

小泉:違う、電気のもう供給が余っちゃってんの。足りないどころじゃない、余っちゃってんの。自然エネルギーはどんどん増えていく。原発を進めようと思ったら、安全対策どんどんどんどん金が掛かる。もう時間過ぎて、やめろ、やめろって言うからやめますけども。

複数:(笑)。

小泉:ただ安いっていうのはうそよ。原発。ますます、一番高い。あらゆる産業の中で一番金食い虫。政府の金使う。とんでもない。よくもこういううそついてたな。なんですか、東電なんていうのは事故の時点で、自分たちだけじゃ賠償払えないと、人が、被害、払えないから支援してくれと政府に言った。あの事故直後ね、2011年。じゃあ5兆円まで政府が支援すると言ったの。上限が5兆円。5兆円って、英語で難しいから訳すの。

複数:(笑)。

通訳:(笑)。Who wants tell me what’s the 5 cyo-yen。

男性:5 trillion.

通訳:5 trillion yen.

小泉:それが、去年9兆円に上げたの。2015年。9兆円まで支援しようって。そしたら最近、東電は9兆円でも足りないからもっと支援してくれと要請してるよ。賠償とかね、除染とか、これから廃炉があるんですよ。廃炉って東電だけじゃできない。原発会社だけじゃできない。政府の金使わなきゃなんない。いっくら金掛かるか分かんない、原発産業っていうのは。

 あとは言いたいけども、時間がないから言わないけど。ともかく原発はどんどんどんどん金がかかる。国民の税金を使う。「もんじゅ」なんて永遠のエネルギー、ごみを使ってまたエネルギーになるんだからって「もんじゅ」やった。30年前ですよ。10年後に完成した。故障。30年たった。一度も動いてないって言っていい。維持費だけで1日5000万。これをね、もう規制委員会からもう経営主体を変えろって言われながら、まだ文科省はうだうだうだうだしてる。あきれちゃうよね。1兆2000億円掛かって、これ全部税金。一度も動いてないって言っていい。2~3カ月動いたんだけど、故障してパー。30年たってできないんですよ。よく「もんじゅ」っていう名前付けたと。

複数:(笑)。

小泉:文殊っていうのはお釈迦さまで、賢い、知恵のある言葉ですよ、文殊。3人寄れば文殊の知恵、3人集まればいいアイデアが出るっていう意味ですよ。300人集まろうが、3000人集まろうが全然いいアイデア出てこない。

複数:(笑)。

小泉:時間過ぎましたがこれでやめますので、まだ話したいことあるんだけども、あとは質問になるけども。ともかく原発はね、もう日本じゃやっていけない産業です。ピンチをチャンスに変える一番いいチャンスなんだ。この事故は確かにピンチだけども、自然エネルギーで日本はやっていける、証明しちゃったんだ。自然エネルギーどんどん動いてる。無限にある太陽、風力、水ね、これを使っていけばさらに日本は発展できる。

 5分超過、5分超過しましたけども、あとは質問を受けますから。

 【連載】小泉純一郎元首相がトモダチ基金創設で会見 全文3へ続く
 
小泉元首相がトモダチ基金創設で会見(全文3完)国民運動的なやり方がいい
 
2016.09.07 20:03
 
 
記者1:(英語)。次世代の安倍さんのことをどう思いますか。

小泉:原発に対してはまったく私の意見と違うけども、で、原発意見は違うんだけども、総理としてはかなり前回を反省して、よく頑張ってんじゃないかなと思いますよ。

司会:(英語)

フェニックステレビ:香港フェニックステレビ特派員の(※判別できず)と申します。今日はありがとうございました。小泉さんの著書を拝読させていただきますと、とても面白かったと思います。で、ここで2つ質問したいんですが、まず1つ目、小泉さんのトモダチ作戦っていうことは、日本の中でほとんど報道されずに注目されていません。これはなぜだと思われますか。そして今後、政府に何か協力を求めるようなお考えはあるのかどうか。これが1つ。

 そして2つ目に、3年前の9月に安倍総理がオリンピックを誘致した際に、福島はアンダーコントロールだということを国際社会でアピールをしました。アンダーコントロールということはとんでもないというふうに、ご著書の中で書いておられますが、この福島の現状についてどう思われるのか。そして汚染水の海洋への流出についても海外では大変懸念はされている話でもあります。これについては、その処理について日本はちゃんとこれからコントロールする能力はあるのかどうか、どのように対応すべきなのかということをお聞かせください。

小泉:まずトモダチ作戦が知られていないという点、これもね、私は不思議なんですよ。もっと大きく報道されていい話だと思うんですけども。想像なんですがいわゆる原子力村というか、原子力関係者、その人たちの宣伝というか働き掛けが、マスコミに対しても政府に対してもかなり大きく影響してるのかなという気がしますね。そういう点があまりメディアでは報道されない理由かなと思ってます。

 それと安倍総理のアンダーコントロールの話ね。これはうそですよ。

複数:(笑)

小泉:これはアンダーコントロールされてない。現在だってね、何キロかにわたって土を凍らせようっていう作戦。で、地下水をコントロールするってんだけど、いまだにコントロールできないでしょう。やるやる、できるできるってできない。だから、よくああいうこと言えるなって俺、不思議なんですよ。もう1つ不思議なのはね、九州の川内原発、去年、原子力規制委員長の田中さんが、九州電力の申請に対して、福島事故後の新しい基準に合格したと。申請をオーケーした。ところがそのあと、でも、私は安全とは申し上げないって言ってるんですよ。

通訳:それは去年のいつですか。

小泉:去年の、去年、10月か。

通訳:10月ですか。

小泉:うん。そのあと政府はなんて言ったか。日本の原発は世界一厳しい安全基準だと言ってんですよ。世界一厳しいっていうんだったらアメリカと比べてみろ。アメリカの原発と。すぐ分かるよ、アメリカより甘い基準だということが。

司会:(英語)

記者2:(英語)。ですから彼が言うには、あれですね。この(※判別できず)、アメリカ政府、調査委員会があったんですね。その調査委員会においては、もうそれを、あんまりにも低被曝量だから、だから、そのあれを、病気もたらすものではないと。それから日本政府はいまだに同じ立場、福島県民にはそれを、被害を認めないと。だから、ずっと言われて、有力者は、ずっとこの、影響があったということを否定し続けてる。どこ見ても。だから現にそれが、その被害を見てるわけです。だから、そういう食い違いはどのように解釈するんでしょうか。

小泉:それは私の講演の中にお話ししましたけどね。それも、専門家のお医者さんから見れば、断定できないって言ってるんですよ。放射能被害とは断定できないって言ってるんですよ。医学的に証明できるか、証明できないかの問題ではなくて、私は自分の常識で、これだけ頑健な兵士が病気になっている、この点に私は重点を置いてるんです。

 だから、それらの病に苦しんでる兵士に対してなんらかできることあればいいなと思ってやってることですから、私は常識を信じてますから。私よく変人って言われるけどね、私は常識人だと思ってるんですよ。

複数:(笑)

小泉:だってじかに聞いてね、これはあの頑健な兵士がこれだけ苦しんでね、病気になってる。医者じゃないけども、病気で苦しんでる姿には変わりないんだから。せっかく日本の救援に来てくれた方がね、これだけ病に苦しんでるのに黙ってていいかと、そうじゃないだろうと思ってやってんですから。医学的な見地と私の見地は違っても、現実に病に苦しんでる人たちに何をするか。この問題の違いですよ。

 ちょっとね、訂正したいんだけどね。私の返事をstrange personと訳しましたよ。これ私、総理のときね、外国人記者に聞いたんですよ。どうも日本語に訳すと変人、英語に訳すとねeccentricとかね、strangeになっちゃうと、こういう理由で変人と言われたのはね、イギリス人だったかな、いい言葉教えてくれましたね。小泉、あんたはstrangeでもeccentricでもないと。extra ordinaryと言われた。

複数:(笑)

通訳:Alright.

小泉:だから変人っていうのは英語はね、extra ordinaryと訳したほうがいい。

通訳:そうだ(笑)。

小泉:ブランディー 01:29:44だってextra ordinaryのほうがいいでしょう。

Weekly geo-political news and analysis:(英語)。竹中平蔵などの情報源によると、小泉さんが現役のときに日本が地震兵器で落とされたために、日本の相互持ち合い制度を終わらせて、日本の上場企業の議決権を外国ハゲタカファンドに渡したというんですけども、そうじゃなければなんで日本の上場企業の議決権を外資に渡したんですか。
 

【中継録画】小泉純一郎元首相が会見 トモダチ基金を7月に創設


 
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2016/09/07 に公開
小泉純一郎 元内閣総理大臣 記者会見「トモダチ作戦支援基金」設立へ  小泉元総理発言は6:26←(数字をクリックでその場面に飛べます)44:15←「1千万円寄付しようか?とある人物から電話がかかったエピソード・・・


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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160907-00000007-wordleaf-pol&p=1

小泉純一郎元首相がトモダチ基金創設で会見(全文1)被ばく米兵救済のため

THE PAGE 9月7日(水)19時9分配信

東日本大震災時、救援活動の米兵が東北沖合で被ばく

「トモダチ作戦支援基金」設立へ 小泉純一郎 元内閣総理大臣 記者会見2016年9月7日

小泉元首相は、2011年3月の福島第一原発事故をきっかけに原発の危険性に対して気づいたとして、以降、「原発ゼロ」を訴えている。

【中継録画】小泉純一郎元首相が会見 トモダチ基金を7月に創設

東日本大震災の救助や復興を支援した米軍の「トモダチ作戦」に参加した元米兵らが、同原発事故で被ばくしたとして東京電力を相手取り集団訴訟を起こているが、7月にはそうした米兵を救済するための基金の立ち上げた。

トモダチ作戦とは? 城南信用金庫相談役、城南総合研究所長の吉原氏

司会:吉原さん。

吉原:先に。

司会:はい。

吉原:城南信用金庫相談役、城南総合研究所長をしております吉原と申します。今回のトモダチ作戦の記者会見に当たりまして、経緯をお話しさせていただきます。小泉先生はかねてより、「ロナルド・レーガン」をはじめとするアメリカの兵士の方々が3.11のときに日本の人たちを救うために一生懸命努力してくださったということを気に掛けており、その中に健康被害を被っている方々がいて、大変な深刻な事態に陥っているということをご存じでした。そしてこれにつきましてぜひ、興味を持って調べるようにと私どもにご指示がありまして、そしてある会合におきまして、ちょうど3月28日でございましたけれども、エイミー辻本さんと出会いまして、いろいろ、そのときにお話を伺いました。そして、この放射性、放射能が、大量の放射性物質が福島から太平洋のほうに流れて、約90%以上の放射性物質が流れたそうですけれども、それを、直撃を浴びたのが救助に当たっていたアメリカの若い男女の兵士の方々に、直接被害が及んでしまったことを伺って。
通訳:(英語)。どうぞ、続けてください。

吉原:はい、ごめんなさい。それで、3月28日にエイミー辻本さんとお会いしたわけです。そしてさまざまなお話を伺いまして。そして、これはぜひお見舞いに行かなくてはいけない。日本のために尽くしてくれたアメリカの若い方々の、病気になっていることに対して大変心を痛めて、人道的な観点から、ぜひお見舞いに行こうということで、私どもにご命令されました。

そこで城南総合研究所といたしまして、小泉先生はその名誉所長でいらっしゃいますのでご一緒にサンディエゴへ行って、大勢の兵士の方々に直接お話を伺って今回の活動に至ったわけでございます。

これから先生からお話があると思いますが、本日の記者会見はこのトモダチ作戦に関する記者会見と伺っておりますので、できればご質問につきましてはそれに集中させていただければと考えておりますので、よろしくお願いいたします。

 
 
小泉:ああ、ああ。大丈夫かな。ああ、これでいいか。これで。
ご紹介いただきました小泉です。本日はお招きいただきましてありがとうございます。今日は60分ぐらい話して、あとの30分は質問に答えると、そういうことのようです。私はここへ初めて来たと思ったんですが、今、写真を見たら現役の総理のときに1回来てるんですね。最近は過去のことをほとんど忘れてますけどね。ちょっと気に掛かってるのは、最近ね、何を言おうとしてるのかも忘れることあるんですよ。

今日は1時間といってもブライアンさんが通訳してくれますから、中身は30分のようですので。トモダチ作戦と、それから私は原発ゼロ運動をしてますから、その点についてできるだけ簡単にお話しして、あとは質問を受けたいと思っております。

私は今日、通訳していただくブライアンさん、そして、奥さんのエイミーさん、ご子息のジュリアンさん、3人の皆さんと、それから、吉原さん、城南信金のですね。一緒にサンディエゴにさる5月、4日間の予定で伺いました。それはエイミーさんから、この救援作戦で被害に遭った兵士たちがかなり出てきてるんだという話を聞いて、それであまり知られてないっていうことを聞いたんですね。アメリカのメディアにおいても、日本のメディアにおいても知られてないと。

そこでエイミーさんいわく、元総理の小泉さんがサンディエゴに行って、じかに被害者の兵士の方々と話し合えば、あるいは実情を聞けば、少しはメディアでも報道してくれるんじゃないかという話だったんです。そういう本当にトモダチ作戦で放射能による被害に遭った兵士がそんなに多くいるのかと、それはやっぱり、人から聞いたよりも、じかに聞いたほうがいいかなと思って、行こうかという話になったんです。

それは3月のことでした、話を聞いたのは。そこに城南信金の吉原さんが同席してたもんですから、私は城南信金のシンクタンク、そこの名誉所長を仰せつかってるんですね。初代の所長は、私の慶應の時代の先生だった加藤寛先生、政府の税制調査会長をしていた経済学者の加藤寛先生でした。
通訳:その加藤寛先生は関係はどういう。

小泉:私の学生時代の先生、教授ね。

通訳:ああ、そうですか。はいはい。

小泉:そして、政府の税制調査会の会長もされてた。

通訳:その方と。

小泉:その方が城南信金の所長をしてた。

通訳:ああ、所長。

小泉:シンクタンクの所長、初代の。

通訳:ミスター加藤何先生ですか。

小泉:加藤寛。

通訳:その2人でこの問題に。

小泉:加藤寛先生っていうのはね、日本人は全部知ってますよ。名前聞けば。有名な人だから。もう説明する必要ない。私も総理時代、経済政策等でいろいろご指導いただいた先生です。その方が亡くなったあと、小泉さん、2代目の名誉所長、どうかという吉原さんの話で引き受けたんです。その吉原さんがブライアンとエイミーさんを紹介して、この会談になったんですね。初めてお会いした、3月。

で、サンディエゴに行って、じかに兵士の話を聞いてくれっていう話を聞いたときにちょっと考えたんです。そしたら吉原さんがすぐね、ホテル代と飛行機代は私が出しますって言ってくれたんです。城南のシンクタンクの名誉所長をしていますけども、給料は一切もらってないんですけども。そこまで熱心に言っていただくんだったらやっぱり聞く必要があるなと思ってね、行ったんですよ。
 
 
 
放射能が出てるのを知らずに、防護服を着ずに救援活動
 
 5月。で、4日間ですね。10名のその健康被害に遭った兵士の皆さんとお話をいたしました。だいたい20代、30代の方ですね。その方々がトモダチ作戦で韓国に行く途中、日本政府からの要請で「ロナルド・レーガン」がすぐ東北へ行けという指令を受けたと。で、東北沖合で停泊して、ヘリコプターで被災地等に行ったり来たりしながら、救援活動に励んでくれたんです。約1カ月間、そこに滞在しながら、さまざまな救援活動に励んでくれて、その後、しばらくたってから、体の調子がおかしいという状況だったようです。

半年後、1年後、病院とかお医者さんに診てもらったんだけども、原因不明と言われたと。そのうち、日がたつにつれて、鼻血が止まらない、下血が止まらないと、そういう状況のようだったようです。

通訳:あれは下痢ですか。

小泉:下痢ですね。下痢っていうか。血も出てる。下のほうからも血が出てるわけです。で、これは放射能の被害じゃないかなというふうにだんだん感じてきたようですよ。で、3月にこの話を聞いたときに、ブライアンさん、エイミーさんが、あの「レーガン」でその状況を映していたビデオがあったんですね。残ってんです。ビデオも拝見しましたよ。で、彼らは放射能が来てると知らないもんですから、あのときはメルトダウン、福島の原発が起きたとき、海のほうへ風が吹いてたんですね。そこで彼らはまさか放射能が出てるの知らないもんですから、防護服を着てないで救援活動してたわけです。で、帰ってきたら、原子力空母ですから当然、ガイガーカウンターなり、放射能測定器も乗せてますよね。それが鳴りだしてるわけですよ。すぐ服を脱げ、シャワーを浴びたっていう、そういうような話も、ちゃんと声も、音声も入ってるんですよね。

だから、東北地方の人よりも放射能の風、放射能プルームっていうんですか。それが海に行ったもんですから、もろに放射能汚染の中にいるんじゃないか、状況、恐れてたわけですね、みんな。話に出てるわけですよ。ことによると、これ俺たちは放射能の中にいるんじゃねえかっていう。考えてみれば、服を脱いでシャワー浴びろって言われても、今から考えると、シャワーを浴びるの、海水ですから、海水の塩分を除くシャワーを浴びてたと。放射能の物質は除けないんですよね。なおかつ、料理は海水を真水にして、淡水にして、海水を使って料理してんですから、当然放射能の汚染された海水です。海水を、塩分だけ取った真水ですけども放射能物質は残っている、汚染された、汚染水によって料理してたわけですよね。それを食べてるわけですよ。

で、日がたつにつれて、病気の症状は重くなる。しかし、この病気は放射能の被害によるものとは断定できないというのが、病院においても医者においても共通の言葉だったようです。彼ら、じかに会ってお話聞いてたんですが、彼らは海兵隊ですから。聞くところによると、海兵隊っていうのは一番厳しい訓練をされる、要求される部隊のようですね。だから、みんな頑健な兵士だったんですよ。20代、30代ですから、頑健な、健康状態良くなきゃ、海兵隊に採用されないわけですよね。その頑健な兵士がもう軍隊の隊員としての活動も十分できなくなった。日々、体の症状が悪くなってるのはよく分かってる。そういう状況の話をじかに伺いました。

私が行ったときは、もうすでに7名の方が病気で亡くなったと。300人もその病気で苦しんでる兵士たちが出てきたと。だからそういう話で、サンディエゴに来てくれるっていう人は限られてたようですね。さまざまな病状の方から聞こうと思ったんですけども、最後、もう1人、来るという予定の人が病状が重くて来れないという人、その人はできませんでしたけども、だいたい症状の比較的軽い人が来てくれたようです。

女性兵士の1人で、妊娠しながらその救援活動をしていた女性がいたと聞いています。その方は本人はみえませんでしたけども、生まれたときは障害児で、もうその子供は亡くなったと。本人も今、病気で除隊しているという話でした。で、それぞれ若い兵士が頑健な体にあるにもかかわらず、思いがけない放射能に汚染されて、病状に苦しんでいる姿。会ってみて1つ驚いたことには、病気を抱えながらも諦めというか、何か明るいんですよね。暗くないんですよ、みんな。仕方がないって言って。

で、しかし、軍隊の隊員として病気が重くなっていくと、正常な活動が出来ない、普段の。で、自分から除隊、体が思わしくないので除隊した人もいるし、あるいは外から見ててもこれはもう活動できないだろうと思えば、除隊せざるを得ない。そういう状況のようですね。で、除隊すると、お医者さんにかかった場合、医療保険が利かないという人がいましたね。

通訳:その病気の。

小泉:兵士の中ね。自分が除隊させられると、除隊すると、今まで軍隊にいた限り、軍の病院で面倒見てくれると。しかし、除隊しちゃうともう軍の病院とは関係なくなってる。自分で行かなきゃいけない。民間の病院に。

で、どちらかと言うと海兵隊委員の皆さんは比較的、裕福ではない家庭の方が多いと。日本のように国民皆保険じゃないですから、アメリカは。医者にかかるだけで相当なお金が掛かるようです。あの頑健な兵士がね、こういう活動できないで、苦しんでる姿をどうしてもっと早く知らなかったのかと。またあまり新聞で報じられてないのはなんでなのかと、不思議に思いましたね。
 
 
 
400人を超える兵士が放射能被害と思われる病に苦しんでいる
 
ロナルド・レーガン空母にいる乗組員は5000人ぐらいいるようですね。で、そのほか空母ですから、付随する艦艇も一緒に来てますよ。で、あとで聞いたことによると、あのトモダチ作戦、1カ月か2カ月の間に米軍は日本政府の要請に基づいて、海兵隊のみならず海軍、陸軍、空軍、約2万人を超える兵士があのトモダチ作戦に参加して、救援活動に励んでくれたようです。

しかし放射能があれほど漏れて、防護服着ないまま活動していた兵士が放射能被害によると思う病に苦しんでるっていうのをじかに聞いて、これは放っておけないなって私は思ったんです。で、兵士たちは淡々と話してましたね、私は任務としてこういう活動をしていると、ヘリコプター乗った、あるいはヘリコプターを整備していたとか、そういう任務について淡々と話していましたよ。しかしこの病気になっちゃって、まあ、仕方がないなというわけですね。

いや、これもね、私は行くときね、300人って聞いたのもびっくりしたんです。300人も出てるなと、病気に苦しんでる人がね。で、お見舞いに行くんだから行く前に吉原さんと相談してね、お見舞い金、なにがしか持ってかなきゃ悪いなと、お菓子って皆、持っていったってしょうがないだろうと思って、200~300万円持っていきゃいいかなと思ったんですよ。10人かそこらじゃないかなと思ったら、300人超えてるって聞いてね、こりゃ200~300万円だと恥ずかしくて恥かいちゃうなと思って、じゃあ手ぶらで聞こうと。何も持ってかない、聞いただけです。

ところが行ったときは300人、超えたと。帰ったとき、4日間ですけどね、帰るときは400人を超えたっていう話を聞いたんです。それで話を聞いて、じかにね、また聞きじゃなくて、じかにその病気で苦しんでる兵士を聞いて、ああ、お気の毒ですね、とか、かわいそうですねって言って、それでおしまいにするわけにはいかないなと思ったんです。

で、今、兵士たちは裁判を起こしてますよね。だから兵士はいかなる被害に遭ってもアメリカの政府を訴えることはできないという、そういうアメリカの側ではそういう制度のようですから、東電とGEとか会社を訴えているようです。それは日本で裁判するのか、アメリカで裁判するのかっていうのを今、争っている最中のようです。

で、私は5月にじかに、サンディエゴに行く前に、外務省の北米局長を訪ねてこういう自体だけど知ってるかと聞きました。聞いてみると、事情は正確に把握していたようです。

通訳:把握して? 把握してなかった?

小泉:いや、私が行く前に北米局長を訪ねて、こういう話なんだけども外務省は知っているか、という話をしたんです。北米局長に。そしたら知っていると。じゃあじかに、私は兵士たちと、これから行くから、サンディエゴに行って、じかに兵士に聞いてまた話するって言って、行った。そして帰ってきてからまた報告に行きましたよ。

しかるに同情はしてくれましたけどね、北米局長は。ああ、せっかくトモダチ作戦に、救援してきた方々がこういう苦しい事情っていうのは本当に残念だ、かわいそうだという話はしてましたけども、政府としてはこれは何もできないんだという話でした。そこで、政府の考え方も分かりますし、それからアメリカの上下両院も国防総省に、どうなってるのかっていう、聞いてるんですよね、アメリカで。で、アメリカ国防総省の、その問いに対する返答が、だいたい東電とかGEと、言ってることと同じことでした。健康被害、これは放射能による健康被害とは断定できないという結論のようです。
 
 
 
政府は何もできず 治療費に役立てられるよう7月5日に支援基金を立ち上げた
 
しかし、医者でない私が言うのもなんですけどね、断定できないにしても、頑健な兵士がこれほどの被害を浴びて、鼻血とか下血が出て、しかもレントゲンを撮ると内部に腫瘍ができてるとか言われている状況。これを見ればね、だいたい、これは放射能による被害だっていうのは分かりますよ、常識で。

そこで、政府は何もできないんだけども、じかに聞いた私としては何か自分にできることをやらなきゃいかんと思ったから、そうだなと。民間でやる、今、一番苦しんでる人にできたのは、なにがしかの治療に役立ててくれるような基金を立ち上げて、わずかでも感謝の気持ちを表さなきゃいかんなと思って、この「トモダチ作戦被害者支援金」を立ち上げたんです。私は政府の人間じゃありませんから、もう一民間人ですから、そんな資金もないし、できるだけ多くの国民にこの実情を分かってもらって、少しでも寄付してもらえればいいなと思って、7月5日にこの支援金を立ち上げました。

まあ、200~300万円じゃ笑われちゃいますからね。なんとか1億円を集めて、ミリオンダラーは集めてね、それを今後の治療かなんかに役立ててもらえばなと思って今、吉原さんとかと協力しながら募金活動を始めております。それでも足りないことは分かってますけども、感謝の気持ちだけでも。日本人が感謝をしてるんだと、帰ったときはトモダチ作戦、ありがとう、日本国民が本当に称賛の声でしたね。トモダチ作戦に参加してくれた米軍の兵士たちに。政府も称賛の声を上げて、ありがとう、ありがとう、感謝の念を伝えてましたよ。しかし実際、実情を聞いてね、ああ、何もしてない、これはまずいなと思って、そのような基金を立ち上げたわけです。だらだら長く続けるわけにはいかないです、政府でもないし。ただ気持ちだけでも少し形に示そうかなと思ってこの基金を。来年の3月31日までに1億円ぐらい集めて、お見舞い金として渡そうかなと思って今、その活動を進めています。

で、私のこの記者会見をテレビで見て、感銘を受けたと言って、いち早く協力してくれたある有名な人がいます。その人は建築家の安藤忠雄さんです。安藤忠雄さんから連絡があってね、あ、小泉さん、協力するよと自分も。1000万ぐらい寄付しようかって言うんですよ。いや、1人でね、そんな出せんのかって言うと、いやいや、安藤さんいわく、俺が1人で出すんじゃないよと。1万円で1000人集める。1万円の会費を取って、1000人の講演会を開く。小泉さん来てくれれば、1000人集めるから。1万人が1000人だと1000万円じゃねえかと。なるほどなと。しかし、1万円お金を出してね、私の話を聞いてくれる人なんか1000人もいないよって言ったら、いやいや、俺、集めてみせる、大阪で。

さる8月18日、大阪で、その日本を考える会で、小泉が講演するというチラシを作ってね。会費、入場料1万円。これは全部トモダチ作戦に寄付しますというチラシを作ってくれたんです。それでも行く前もだいたい、券はね、1000枚買ってくれる人がいたとしても、10枚、20枚買ってくれる人もいるでしょう。しかし実際に1000人、その会場に来てくれんのか心配しな、でも実際、会場、当日、1000人の椅子が足りないっていうんですよ。椅子が足りないからって300足した。1300人。1300ぐらい集まっちゃったんです。大したもんだなと。こういう人はいないだろうと、安藤さんみたいに思ったら最近、安藤さんの話を聞いたと。東京でやりたいっていう人が出てきまして、なるほど、そのチラシを参考にしたいから教えてくれ。ありがたいなと思ってます。

今、だいたい4000万近くそういう基金が集まりましたから、なんとか来年までには1億円、達成しようと思って頑張ってます。トモダチ作戦についてはこんなところで。あ、そうそう、額は難しいね。400万と4000万は違うから。

複数:(笑)
 
【連載】小泉純一郎元首相がトモダチ基金創設で会見 全文2へ続く


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2016年9月3日土曜日

お吟さま

お吟さま(1962年)- 田中絹代 / Love under the Crucifix - Kinuyo Tanaka


2015/11/08 に公開
製作:にんじんくらぶ / 配給:松竹映画株式会社 公開:昭和37年(1962年) 6月 3日 監督:田中絹代 / 脚色:成沢昌茂 / 原作:今東光 / 撮影:宮島 / 有馬稲子、仲代達矢、高峰三枝子

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今東光
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%9D%B1%E5%85%89
今 東光(こん とうこう、1898年(明治31年)3月26日 - 1977年(昭和52年)9月19日)は、横浜生まれの天台宗僧侶(法名 春聽[注釈 1])、小説家、参議院議員。大正時代後期、新感覚派作家として出発し、出家後、長く文壇を離れるが、作家として復帰後は、住職として住んだ河内や平泉、父祖の地、津軽など 奥州を題材にした作品で知られる。

作家・評論家で、初代文化庁長官を務めた今日出海(ひでみ)は三弟。儒学者の伊東梅軒は母方の祖父。医師で第8代弘前市長や衆議院議員を務めた伊東重は母方の伯父。国家主義者の伊東六十次郎は従弟。外交官の珍田捨巳は父方の遠縁にあたる。

経歴
新進時代
横浜市伊勢町(野毛山・伊勢山皇大神宮下)にて代々津軽藩士山奉行家系の父・武平(ぶへい)、母・綾の間の3人兄弟の長男として生まれた。四男 信巳(のぶみ)は早世。しばしば文学史年譜などに「横浜市伊勢崎町生まれ」とあるが、あきらかに間違いで、現在の横浜市中区伊勢町・宮崎町には、日本郵船会社(NYK)の社宅があった。父武平(明治元 9/4 生)は船長職の最古参で[注釈 2]、国内五港定期航路 品川丸を経て、海外航路 香取丸のキャプテンを務める。来日時のラビンドラナート・タゴールと知遇になったり、第一次世界大戦時に船がドイツの無差別攻撃で巡洋艦エムデンに追われたが、智略によってこれを回避したりした。また、南インド・マドラスに寄港、船の修理で船渠(ドック)入りした折、アディアールで神秘思想に触れ「神智学協会 the Theosophical Society  註:霊智学会とも呼称」会員となる。以後「胡桃船長」の異名をとるほどに菜食主義に徹した有数の神智学者としても知られた。アニー・ベサント、ジッドゥ・クリシュナムルティと親交を深め、東京市本郷区西片町に「神智学協会東京ロッヂ 1920」を開設、鈴木大拙夫人で神智学者だったベアトリス・レインとも交流した。母、綾は、函館・遺愛女学校(遺愛学院)、明治女学校に学んだ才媛で佐藤紅緑(サトウハチロー、佐藤愛子の父)とは小学校の同級生だった。東光は父の転勤に沿い、幼年・少年期を小樽・函館・横浜・大阪と転じ、10歳より神戸で育つ。この頃、神戸の御影に家があり、父同士が友人だった郡虎彦の影響で文学に関心を持ち、永井荷風、谷崎潤一郎を耽読、漢文に長け北原白秋、室生犀星と文通を試みるほどの早熟振りであったが、牧師の娘と交際したことなどから関西学院中学部を第3学年の1学期の終わりで諭旨退学になった。兵庫県立豊岡中学校に転校するも地元の文学少女と恋愛したことから素行が悪いとされ退校処分を受ける。こののち正規の教育を受けることなく、本人の記すところに拠ると「以後独学」とある。

1915年、上京して小石川茗荷谷の伯父の家に寄食し、「太平洋画会/太平洋美術会」(中村不折)、「川端画塾/川端画学校」(主任教官 藤島武二)に通い、画家を目指しながら文学も志し東郷青児、関根正二らと親交を結び、生田長江に佐藤春夫を紹介される。東郷、佐藤春夫と第6回二科展に油彩を出品するも選に入らず絵筆を折る。またこのころ東郷のとりもちで、本郷三丁目の西洋料理店 燕楽軒で女給をしていた宇野千代とも短期間交際した。(芥川龍之介がこのエピソードをもとに 短編『葱』を創作。)1917年11月、室生犀星の詩誌「感情」に詩篇「父の乗る船」が掲載される。この間、一家は神戸から東京市本郷区西片町に引越し、東光も実家に戻った。1918年秋、駒込、佐藤春夫宅で谷崎潤一郎に遇い、以後生涯、師と仰ぐこととなった。谷崎の非常勤無給秘書を務めながら、1920年、神戸時代の知人(二弟の同級生)池田虎雄=麗進(大阪 千日前、日蓮宗 妙見宮 蓮登山自安寺)の紹介で、一高寮で知り合った川端康成、鈴木彦次郎らと交友を深め一高のモグリ学生となり「盗講」と号し、芥川龍之介の勧めに塩谷温博士の中国古典講義を聴講した。

1921年、川端の強い推薦により、ともに第6次「新思潮」の発刊に同人として参加。『支那文学大観』の刊行に際しては「桃花扇」「唐代小説」等の訳出を担当し、帝大生の論文の代筆も引き受けるほどの学殖だった。1922年秋『新潮』に発表した随筆「出目草子」を認められ、菊池寛の訪問を受け『文藝春秋』創刊に参画。その後石浜金作らと新進作家による『文藝時代』創刊に参加して、1924年「軍艦」、1925年「痩せた花嫁」などを発表。1924年創刊の『苦楽』に発表した「朱雀門」も高く評価され、新感覚派文学運動の作家としての位地を得る。

しかし、菊池寛が『文学講座』の刊行に際して東光が正規の文学士ではないという理由から執筆メンバーから外したこと、また『文藝春秋』1924年11月号が掲載した「文壇諸家価値調査表」というゴシップ記事(執筆は直木三十五)に腹を立て反駁文を『新潮』に掲載したことなどをきっかけに激しく菊池寛ら「既成文壇の権威」と対立し袂を別ち、『文藝時代』も脱退した(文藝時代#『文藝時代』創刊をめぐる騒動を参照)。新潮社の中村武羅夫らによる「不同調」に参加すると同時に、神楽坂・白銀町に文党社を興し同人誌「文党」を創刊。村山知義が表紙画を担当、間宮茂輔、サトウハチローらが参加し、参加者がプラカードをぶら下げて「文党」の歌(桃太郎の節)を歌いながら街頭を練り歩くなどもした。「苦楽」に掲載した「異人娘と武士」は阪東妻三郎プロダクション第1回作品として映画化されて大当たりし、この縁で阪妻プロの顧問となり、一時京都嵯峨野にも住む[注釈 3]。また関東大震災の時に一緒に逃げ歩いた、元帝国劇場女優の人妻とのちに結婚する。1925年に処女作品集『痩せた花嫁』(金星堂)を出版し好評を受け、雑誌からの執筆依頼も増え、1926年には初の新聞小説『愛経』(東京日々新聞、大阪日日新聞)を連載。

1927年、芥川龍之介の自殺に遭い、この頃より出家を志す。また「文党」に集まっていた社会運動家の影響でプロレタリア文学にも関心を強め、新感覚派の片岡鉄兵、鈴木彦次郎らとともに「左傾」を声明し、1929年にプロレタリア作家同盟に参加、作家同盟の機関誌『戦旗』に戯曲「クロンスタットの春」、書き下し長篇として南部藩の百姓一揆を題材にした『奥州流血録』などを発表。プロレタリア大衆文学の先駆的作品とされる[1](ただしこの著作は生出仁によるものであったという説が有力[2])。また、映画の関係から、日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)の初代委員長や、映画従業員組合の委員長もつとめていた[3]。しかし、妻フミ子の嫉妬と極端な独占欲により文学関係者との交際を妨害されたことや、左翼運動の中での軋轢が決定打となって次第に文壇に距離を置く。この時期、妻の実家があった茨城県結城郡大花羽村、鬼怒川の辺に書院を建て独居していたが、同地の古刹、天台宗 正覚山蓮華院安楽寺(現茨城県常総市大輪)住職、弓削俊澄僧正の知遇を得て、非常勤私設秘書を買って出た。

文壇復帰
1930年10月1日、金龍山浅草寺伝法院で大森亮順大僧正を戒師として出家得度、天台法師となり「東晃」と号した[4]。また「戒光」とも号した(このころのペンネームか)。比叡山麓坂本、延暦寺の子院、戒蔵院に籠り、木下寂善僧正のもと三ヶ年の修行。

1933年8月、四度加行(しどけぎょう)を履修。1934年2月、佐々木味津三の訃報に接す。3月、天台宗の僧侶養成機関、比叡山専修院(現在の叡山学院専修科)を卒え、検定試験に合格。准教師となって安楽寺に下り[注釈 4]、この間『史外史伝 祇王』『僧兵』などを纏め刊行した。また、阪東妻三郎を主役にトーキー「支倉常長」の製作、バチカンロケも視野にする構想を発表したりした。1936年「日本評論」に「稚児」を発表、評価の少ない中で川端康成は「東光さんは健在ですね」と日出海に語った[注釈 5]。前後して強度の心臓肥大症を患い生死を彷徨い、秘教義や易学の研究に勤しんだ。静養の明けた1941年1月31日、権律師春聽として岐阜県郡上郡嵩田村(現、岐阜県郡上市美並町)、天台宗大日坊(古来、加賀国白山寺白山本宮〔現 白山比咩神社〕、越前国平泉寺白山神社と並び白山信仰の拠点であった、美濃国白山中宮長瀧寺=泰澄開基の末寺、長瀧一山八坊の一)の住職に任ぜられ赴くが、戦時下の宗教行政(宗教団体法)に阻まれ復興ならず、易学書『今氏易学史』を著し(谷崎潤一郎、佐藤春夫序文)、『神秘的人間像』(神智学協会刊 C・W・リードビーター僧正 原著)を訳出、『易学史』は殷代からの史書で日本で初めての本格的な研究書として高い評価を受け、北京大学でも紀要が刊行された。華北交通の顧問としてしばしば中国大陸にも赴いた。古美術関係の著述もあり、1943年『擇艸』華道御門流誌(水谷川紫山・千宗守ら同人 松田幸丸編集・擇艸舎発行)に執筆。佐渡に渡り取材した『順徳天皇』は戦時下、唯一の大著である。この時代の交友関係に、青山圭男、鳥海青児・美川きよ夫妻があった。1942年水の江瀧子が組織した「劇団たんぽぽ」の命名者でもあった。

1943年11月、ようやくに小康を得たことを機に発心し、顕密両教弘通(けんみつ りょうぎょう ぐつう)の勝地、伝法灌頂の道場として発展した、関東・奥羽の天台宗中心道場、茨城県真壁郡黒子村(現筑西市)、東睿山千妙寺に上り、金剛寿院灌室にて入壇、「灌頂」を履修、天台宗伝燈の「三昧流」伝法を修めた。

戦時中は東京・穏田(渋谷区神宮前)に住み、出版書肆・文耀書院や易学の結社「天台閣」を興すなどし、根岸 (台東区)・聖恩教会(本門法華宗)長田龍省(おさだ りゅうしょう)との親交を深めた。龍省は秀れた法華行者で霊能家であり、「易学史」執筆や、少年期の出逢い以来の神智学等「秘教義」研鑽時代の東光坊春聽法師の盟友的存在であった。しばしば、龍省の巫呪、口述する"古代秘史"をノートに書き留め続けていたという(夫人談)。1945年5月25日の空襲で2万5千冊の蔵書を焼亡、新進作家として活躍した時代の交友録、諸作家や友人たちとの書簡資料、貴重な仏書、史料等も焼失したという。当時北多摩郡調布町二本松にあった軍需工場、昭和鍛工会社(戦車のキャタピラ等を製造)付属青年学校の講師を務めていたことから、調布町飛田給の同社宅に疎開した。同じころ、妻フミ子が離婚を申し出た。

戦後1946年秋、母綾の秘書役を務めていた千葉県印旛郡志津村(佐倉市志津)の旧家の人、蜂谷清(はちや きよ)と再婚。かつて1936年「日本評論」に発表の「稚児」を、稿を革たに1947年2月に谷崎潤一郎序文、鳥海青児装丁を得て刊行、出版元の金沢忠雄は仲間内で「カナチン」と称ばれる印刷用紙ブローカーの闇屋然であったという。この時期に特筆すべき労作として、1936年に死去した父武平の遺稿等を母とともに修訂、編纂した涅槃論の大冊「神智の門」があって(1947年8月16日、武平忌に脱稿)、上田光雄主宰の光の書房から刊行予定であったが実現を見ず、後ち二度にわたり翻刻連載が試みられた(個人雑誌「東光」1953・「歓喜世界」1983~89)。

1948年9月、富田常雄主宰「日本文庫」に2千枚の長編を構想し「悪童」を連載した。稿料は月5千円であったという(夫人談)。亡父の墓所多磨墓地、武蔵国分寺跡はじめ北多摩近在を下駄一足で歩き回り、沈潜・雌伏の時代とはいえ、近藤勇、新撰組に関するもの等、小品50数編が生れた。同時期、フィリピンから復員した今日出海が、1945年11月、文部省社会教育局文化課長、同芸術課初代課長となった。敗戦の翌年、1946年に開催された「第1回芸術祭」の立案には、小泉清(洋画家:小泉八雲の三男)に呼びかけるなどし、積極参画したという(本人談)。

調布は「東洋のハリウッド」とも称された映画の町で、出家前に阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)顧問や、全日本映画従業員組合書記長、日本プロレタリア映画同盟委員長などを務めていた関係もあって、飛田給の草庵には多くの映画人が訪れた。時代は1946年から1948年の東宝争議の真っ只中であり、東宝、新東宝、独立プロの関係者が出入りしていたという。かつての調布・二本松の軍需工場、昭和鍛工会社跡地は、戦後、伊藤武郎による独立映画の撮影所となった[注釈 6][5]。

1950年秋から一年間、春日大社、四天王寺に赴き易学を講義、1951年9月、天台宗総本山延暦寺座主の直命により大阪府八尾市中野村の天台院の特命住職となり西下する。天台院は当時檀家が30数軒の貧乏寺であったが、 天海大僧正の弟子、念海和尚による再興[注釈 7]、無畏智道上人止住隠棲[注釈 8]など、歴代、高僧の隠居寺であった。保田與重郎が 『春聽上人』としての西下を促した。與重郎が後に著した『現代畸人伝』に当時の消息が綴られている。同時期、河上徹太郎、伊藤整らが大正期「新感覚派」作家の雄としての今東光を回想、高見順も『昭和文学盛衰史』にその文壇史的位地を特筆した。天台院主として春聽上人は1952年5月1日、東光山(紫雲山)天台院に晋山した。沼田に囲まれた河内八尾の鄙びた小庵への入山であったが、春日大社宮司・水谷川忠麿(近衛文麿・近衛秀麿の弟、夭折した近衛直麿の兄)、四天王寺管長・出口常順の列座、雅楽伶人による雅楽の演奏、職衆による声明という古式による入山の儀に村人は度肝を抜かれ、「オイ。ワレ。こんどの和〈オ〉っさん(和尚さんの意)。エライ、ヤマコ張っとる《ペテン師》やナイケ。」などと噂し合ったという。摂河泉、畿内古代道を渉猟し、檀家信徒と接する衆生教化の日々の中に、河内人の気質、風土、歴史への理解を深くし、東大阪新聞社『河内史談 第参輯』1953 に「天台院小史」を執筆。「河内はバチカンのようなところだ」「歴史の宝庫だ」と、作家魂が蘇生、個人雑誌『東光』を刊行した。のちに文壇復帰のきっかけとなる「闘鶏」を取材執筆しながら、「ケチ(吝嗇)・好色・ド根性」[注釈 9]といった河内者の人間臭と、土俗色の色濃い河内地方の方言や習俗に親しんでいった。のちにエンターテイメント作家としての代表作のひとつとなる『悪名』の主人公、朝吉親分のモデルとなった、岩田浅吉との出会いもこのころであった。

出家
1930年10月1日、金龍山浅草寺伝法院で大森亮順大僧正を戒師として出家得度、天台法師となり「東晃」と号した[4]。また「戒光」とも号した(このころのペンネームか)。比叡山麓坂本、延暦寺の子院、戒蔵院に籠り、木下寂善僧正のもと三ヶ年の修行。

1933年8月、四度加行(しどけぎょう)を履修。1934年2月、佐々木味津三の訃報に接す。3月、天台宗の僧侶養成機関、比叡山専修院(現在の叡山学院専修科)を卒え、検定試験に合格。准教師となって安楽寺に下り[注釈 4]、この間『史外史伝 祇王』『僧兵』などを纏め刊行した。また、阪東妻三郎を主役にトーキー「支倉常長」の製作、バチカンロケも視野にする構想を発表したりした。1936年「日本評論」に「稚児」を発表、評価の少ない中で川端康成は「東光さんは健在ですね」と日出海に語った[注釈 5]。前後して強度の心臓肥大症を患い生死を彷徨い、秘教義や易学の研究に勤しんだ。静養の明けた1941年1月31日、権律師春聽として岐阜県郡上郡嵩田村(現、岐阜県郡上市美並町)、天台宗大日坊(古来、加賀国白山寺白山本宮〔現 白山比咩神社〕、越前国平泉寺白山神社と並び白山信仰の拠点であった、美濃国白山中宮長瀧寺=泰澄開基の末寺、長瀧一山八坊の一)の住職に任ぜられ赴くが、戦時下の宗教行政(宗教団体法)に阻まれ復興ならず、易学書『今氏易学史』を著し(谷崎潤一郎、佐藤春夫序文)、『神秘的人間像』(神智学協会刊 C・W・リードビーター僧正 原著)を訳出、『易学史』は殷代からの史書で日本で初めての本格的な研究書として高い評価を受け、北京大学でも紀要が刊行された。華北交通の顧問としてしばしば中国大陸にも赴いた。古美術関係の著述もあり、1943年『擇艸』華道御門流誌(水谷川紫山・千宗守ら同人 松田幸丸編集・擇艸舎発行)に執筆。佐渡に渡り取材した『順徳天皇』は戦時下、唯一の大著である。この時代の交友関係に、青山圭男、鳥海青児・美川きよ夫妻があった。1942年水の江瀧子が組織した「劇団たんぽぽ」の命名者でもあった。

1943年11月、ようやくに小康を得たことを機に発心し、顕密両教弘通(けんみつ りょうぎょう ぐつう)の勝地、伝法灌頂の道場として発展した、関東・奥羽の天台宗中心道場、茨城県真壁郡黒子村(現筑西市)、東睿山千妙寺に上り、金剛寿院灌室にて入壇、「灌頂」を履修、天台宗伝燈の「三昧流」伝法を修めた。

戦時中は東京・穏田(渋谷区神宮前)に住み、出版書肆・文耀書院や易学の結社「天台閣」を興すなどし、根岸 (台東区)・聖恩教会(本門法華宗)長田龍省(おさだ りゅうしょう)との親交を深めた。龍省は秀れた法華行者で霊能家であり、「易学史」執筆や、少年期の出逢い以来の神智学等「秘教義」研鑽時代の東光坊春聽法師の盟友的存在であった。しばしば、龍省の巫呪、口述する"古代秘史"をノートに書き留め続けていたという(夫人談)。1945年5月25日の空襲で2万5千冊の蔵書を焼亡、新進作家として活躍した時代の交友録、諸作家や友人たちとの書簡資料、貴重な仏書、史料等も焼失したという。当時北多摩郡調布町二本松にあった軍需工場、昭和鍛工会社(戦車のキャタピラ等を製造)付属青年学校の講師を務めていたことから、調布町飛田給の同社宅に疎開した。同じころ、妻フミ子が離婚を申し出た。

戦後1946年秋、母綾の秘書役を務めていた千葉県印旛郡志津村(佐倉市志津)の旧家の人、蜂谷清(はちや きよ)と再婚。かつて1936年「日本評論」に発表の「稚児」を、稿を革たに1947年2月に谷崎潤一郎序文、鳥海青児装丁を得て刊行、出版元の金沢忠雄は仲間内で「カナチン」と称ばれる印刷用紙ブローカーの闇屋然であったという。この時期に特筆すべき労作として、1936年に死去した父武平の遺稿等を母とともに修訂、編纂した涅槃論の大冊「神智の門」があって(1947年8月16日、武平忌に脱稿)、上田光雄主宰の光の書房から刊行予定であったが実現を見ず、後ち二度にわたり翻刻連載が試みられた(個人雑誌「東光」1953・「歓喜世界」1983~89)。

1948年9月、富田常雄主宰「日本文庫」に2千枚の長編を構想し「悪童」を連載した。稿料は月5千円であったという(夫人談)。亡父の墓所多磨墓地、武蔵国分寺跡はじめ北多摩近在を下駄一足で歩き回り、沈潜・雌伏の時代とはいえ、近藤勇、新撰組に関するもの等、小品50数編が生れた。同時期、フィリピンから復員した今日出海が、1945年11月、文部省社会教育局文化課長、同芸術課初代課長となった。敗戦の翌年、1946年に開催された「第1回芸術祭」の立案には、小泉清(洋画家:小泉八雲の三男)に呼びかけるなどし、積極参画したという(本人談)。

調布は「東洋のハリウッド」とも称された映画の町で、出家前に阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)顧問や、全日本映画従業員組合書記長、日本プロレタリア映画同盟委員長などを務めていた関係もあって、飛田給の草庵には多くの映画人が訪れた。時代は1946年から1948年の東宝争議の真っ只中であり、東宝、新東宝、独立プロの関係者が出入りしていたという。かつての調布・二本松の軍需工場、昭和鍛工会社跡地は、戦後、伊藤武郎による独立映画の撮影所となった[注釈 6][5]。

1950年秋から一年間、春日大社、四天王寺に赴き易学を講義、1951年9月、天台宗総本山延暦寺座主の直命により大阪府八尾市中野村の天台院の特命住職となり西下する。天台院は当時檀家が30数軒の貧乏寺であったが、 天海大僧正の弟子、念海和尚による再興[注釈 7]、無畏智道上人止住隠棲[注釈 8]など、歴代、高僧の隠居寺であった。保田與重郎が 『春聽上人』としての西下を促した。與重郎が後に著した『現代畸人伝』に当時の消息が綴られている。同時期、河上徹太郎、伊藤整らが大正期「新感覚派」作家の雄としての今東光を回想、高見順も『昭和文学盛衰史』にその文壇史的位地を特筆した。天台院主として春聽上人は1952年5月1日、東光山(紫雲山)天台院に晋山した。沼田に囲まれた河内八尾の鄙びた小庵への入山であったが、春日大社宮司・水谷川忠麿(近衛文麿・近衛秀麿の弟、夭折した近衛直麿の兄)、四天王寺管長・出口常順の列座、雅楽伶人による雅楽の演奏、職衆による声明という古式による入山の儀に村人は度肝を抜かれ、「オイ。ワレ。こんどの和〈オ〉っさん(和尚さんの意)。エライ、ヤマコ張っとる《ペテン師》やナイケ。」などと噂し合ったという。摂河泉、畿内古代道を渉猟し、檀家信徒と接する衆生教化の日々の中に、河内人の気質、風土、歴史への理解を深くし、東大阪新聞社『河内史談 第参輯』1953 に「天台院小史」を執筆。「河内はバチカンのようなところだ」「歴史の宝庫だ」と、作家魂が蘇生、個人雑誌『東光』を刊行した。のちに文壇復帰のきっかけとなる「闘鶏」を取材執筆しながら、「ケチ(吝嗇)・好色・ド根性」[注釈 9]といった河内者の人間臭と、土俗色の色濃い河内地方の方言や習俗に親しんでいった。のちにエンターテイメント作家としての代表作のひとつとなる『悪名』の主人公、朝吉親分のモデルとなった、岩田浅吉との出会いもこのころであった。

文壇復帰
1953年2月「役僧」が30年ぶりに『文藝春秋』に掲載され、文芸家協会編「創作代表選集」にも収録された。『大法輪』に「天台大師」「師の御坊」、『祖国』に幕末の志士河上彦斎を描く「人斬り彦斎」を連載、「破戒無慚」「人の果て」を発表。1955年10月2日、比叡山に上山。天台宗随一の古儀、法華大会(ほっけだいえ)「広学豎義」(こうがくりゅうぎ)に臨み教学論議(僧侶の試験)を及第し阿闍梨となり、1956年1月、京都の宗教紙「中外日報」第二代目社長に就任した。

天台院を訪れた谷崎潤一郎により「闘鶏」の原稿が中央公論社に送られ、『中央公論』1957年2月号に掲載された。その前年1956年に裏千家の機関誌『淡交』に1年間連載していた『お吟さま』で第36回直木賞を受賞し、一躍流行作家として文壇に復帰する。

それまで天台院では法施への対価として、宝前に河内産の茄子や胡瓜、ときに軍鶏肉があがる、長閑、朴訥としたものだったが、東光和尚ブームの到来に一夜にしてバタくさいものになったと夫人は語った。「だって、それまでお布施ったって30円くらいでしょ。それが印税が入ってくるのですものね。」「お寺の修理だ、復興だって出てゆく。本山から給料が出るわけじゃないし。ネ。」「私が好きな作品は『悪童』。一番いい時代でした。」「毎日、毎日が面白かったのよ。言葉なんてちっともわからないのにね。」「東光は。オイ。今日はいい日だな。いい日だな。って言うけれど、何もいいことなんてないのよネ(笑)。檀家の話は、ケンカだ。バクチだ。ヨバイだ、ジョロカイだって、そればかりでしょ(笑)。放送局(BK:NHK大阪)が取材に来て録音してっても放送できないっていうのヨ(笑)。」「それでいて、夜中になると、そのテープ、みんなで聞いてはゲラゲラ笑ってるんだって(笑)。あのテープ、どこかに残ってないでしょうかね。」(「驚きももの木20世紀」「知ってるつもり」等、民放取材にこたえての夫人談)

作家活動再開後は「山椒魚」「春泥尼抄」「悪名」「こつまなんきん」「河内風土記」など、八尾周辺の河内地方に取材した、一連の「河内もの」を立て続けに発表し、舞台化、映画化も相次いだ。辺鄙な農村、八王子市恩方に篭り第2回毎日出版文化賞を受賞したきだみのるの「気違い部落周游紀行」と、上方河内在の異色の僧が描く「河内もの」は東西の雄と評され衆目を蒐めた。大宅壮一、福田定一(司馬遼太郎)、村上元三、寺内大吉をはじめ、天台院を訪れる識者は多士済々、柳原白蓮の姿もあった(本人談)。文学講座も開かれ「日本書紀」の講義では、大和・河内の地理にもとづく、在郷ならではの「オモロ講座」が展開した。(鈴木助次郎談)

1957年に東京・京都で開催された国際ペン大会京都大会では、日本ペンクラブ会長川端康成を援け、関西財界人に呼びかけ大会を成功に導いた。その流れは1960年、山田耕筰、和田完二らとの「大阪文化協会」設立、第1回大阪文化まつり開催となってゆく。1958年には帝塚山学院、四天王寺学園、相愛女子短期大学講師として、比較文学を講義。

この時期の作品として、古代史や河内キリシタン伝承に取材した「弓削道鏡」「生きろマンショ」、また「はぜくら(支倉常長)」「東光太平記(楠木正成)」など歴史小説を数多く創作。天台院の名は全国に知られた。同院の再興につづき、貝塚市の水間寺、密蔵院(春日井市)、明眼院、安養寺など特命住職として次々に兼務する荒廃した古刹の復興に身を挺し、印税を注ぎ込んでの寺院経営を手がけ、権僧正を拝命する一方、「オレは大工坊主みたいなものだよ。オイ」と周囲を笑わせ、ケムに巻いていた。取材に赴く先々、また執筆の途次、杖を、筆を留め、しずかに読経することしばしばであったという[注釈 10]。『悪名』は1961年に勝新太郎、田宮二郎出演の映画(大映)となりシリーズ化されるほど大ヒットした。

中尊寺貫主時代
僧侶としては、1964年春、エジプトからヨーロッパ各国巡錫の旅では、4月28日、バチカン市国ローマ法王庁にて、教皇パウロ六世に謁見、バチカン放送局の放送機材を松下幸之助が寄贈したこともあって日本人初の放送を行った(伝)。1965年11月、僧正となり、1966年5月中尊寺貫主に晋山、国宝金色堂の昭和大修理に努めた(1968年5月、落慶大法要執行)。谷崎潤一郎、川端康成、梶山季之の死去に際しては戒名を贈り、葬儀の導師を勤め、弔辞を読んだ。同じ天台宗僧侶である弁慶を描いた『武蔵坊辨慶』は、参議院議員活動による中断を挟んで1964-65年、及び76-77年に新聞連載されたが、死去により未完。また両親が津軽出身であることから自らを蝦夷の末裔「東夷ノ沙門(とういのしゃもん)」と称し、平泉・中尊寺を創建した奥州藤原氏を描いた歴史小説『蒼き蝦夷の血 藤原四代』を1970年から執筆するが、藤原清衡、藤原基衡、藤原秀衡の三代までを描いたところで死去したため、未完となっている。1973年11月の瀬戸内晴美の中尊寺での出家得度に際しては、師僧となり「春聽」の一字を採って「寂聴」の法名を与えた。

1968年には参議院議員選挙全国区に自由民主党から立候補、当選し1期務めた。選挙時には川端康成が選挙事務長となって運動に協力、街頭で応援演説も行った。議会での最初の発言は「自衛隊は人を殺すのが商売なのだから、安心して殺せ」であり、型破りな性格と発言はつとに有名だった。「毒舌説法」でテレビや週刊誌でもコメンテーターとして人気があり、1973年からは週刊プレイボーイの過激な人生相談「極道辻説法」でも知られた。生来の「喧嘩屋」でその特異な人物像から各界に多大な影響を及ぼしたため梶原一騎や笹川良一と並び少々の誇張も含め「昭和の怪人」として評されることが多い。

晩年
天台宗による「一隅を照らす運動」が1969年に始まると、その初代会長を務め(1973年まで)、そのための辻説法も行った。

晩年には、S字結腸癌を患い国立がんセンターで2度の手術(1973・1974)を受けるも、比叡山・法華総持院東塔 昭和大再建(さいこん)、延暦寺における長講会(ちょうごうえ)、坂本・東南寺における「戸津説法」講師(こうじ)勤仕 1975。不動堂(護摩堂)、涅槃堂、大書院等、中尊寺諸堂の諸整備、岩手県浄法寺町の古刹、八葉山天台寺特命住職晋山、復興に着手、本尊・十一面観音菩薩像の造立発願 1976、と、あらたな時代に向けての天台教学改革提唱など、聰慧超脱、稀代の傑僧躍如たるものがあった。加えて、闘病、静養もままならぬなか、ヨーロッパ(耀盌展 1972)、ハワイ(天台宗海外伝道事業団 1975)と錫を巡らし、過密なスケジュールながらも、「作家は、ジャーナリズムに殺されてこそ本望」「ボクは生涯現役だよ」と執筆、テレビ出演、講演、口述を続けた。1975年から77年まで『海』に連載した、若いころの谷崎潤一郎を描いた『十二階崩壊』、週刊読売連載「友鏡 ― 宇野千代の巻」が絶筆となる。

1977年6月に体調を著しく崩し再々度の入院、そして急性肺炎を併発し、千葉県四街道市の国立療養所下志津病院で9月19日遷化した。寛永寺根本中堂瑠璃殿における本葬儀には、東叡山輪王寺門跡 杉谷義周大僧正が、法号「大文頴心院大僧正東光春聽大和尚(だいぶんえいしんいんだいそうじょうとうこうしゅんちょうだいかしょう)」を撰み大導師を勤めた。弔辞は、前夜パリから駆けつけた東郷青児が「十七歳の東光ちゃんは」と泪の裡に呼びかけ、椎名悦三郎が続き、皇太子からの供花、福田赳夫首相の献香、宗教界、文壇、政界、財界、芸能界ほか多数の参座者が続いた。坪内寿夫、竹中労、戸川昌子、安岡章太郎、藤本義一、田宮二郎らや、一般読者の青年も数多く参列した。

墓所は東京都台東区上野寛永寺第三霊園、柴田錬三郎の撰文による文学碑があり、中尊寺、天台寺、天台院、比叡山霊園(堅田)に分骨納骨、それぞれに供養塔が建てられ、三回忌、七回忌…と年忌が営まれた。寛永寺における折々の偲ぶ会には、松本清張、陳舜臣、半村良も駆けつけた。

なお文壇復帰からの作家活動や宗教活動を守り支えた きよ夫人は、2008年9月19日という夫の祥月命日と同月同日死去。「慈観院闊朗清妙大姉」の法号は、東叡山寛永寺一山圓珠院、杉谷義純住職(天台宗元宗務総長)の撰による。大和尚をして「この世で一番畏いのは、かあちゃんだよ!」と言わしめた、愛らしく剛い人柄そのものを表す。千葉県佐倉市での葬儀には、杉谷師が導師を勤め、中尊寺、天台寺、天台院等諸師による読経、法弟子瀬戸内寂聴尼も列座、法類、法縁が随喜し、多数の有縁の士が参列した。献花には福田みどり(司馬遼太郎夫人)の名もみられた。

作品
『お吟さま』は、千利休の娘の高山右近への愛と生き様を、河内出身の侍女の語りによって、一人の女の哀しい生涯が絢爛たる桃山文化を背景に描かれている。直木賞選考会では、選考委員達よりも文壇では先輩でもあり、今さらという意見もあったが、大佛次郎は「老熟した作家のものと称せざるを得ぬ」と評し、吉川英治、木々高太郎、川口松太郎らの支持も得て受賞する。

この年の『中央公論』2月号に掲載した短篇「闘鶏」は、浅吉親分こと、岩田浅吉に教えられた闘鶏の魅力に取り憑かれて作家としての情熱を取り戻し、数年かけて取材執筆したもので、闘鶏を通して河内の風土を描いており、平野謙、高橋義孝はこの時代の秀れた代表作として推すなど高く評価されている。また河内出身の尼僧の愛憎、苦悩と生き様を描く『春泥尼抄』は映画化もされて話題になり、尼僧ブームを巻き起こした。

自伝的長編小説として『悪童』『悪太郎』がある。

原作映画
『お吟さま』 配給:松竹映画株式会社、田中絹代監督、成澤昌茂脚色、1962年、有馬稲子、仲代達矢、高峰三枝子
https://www.youtube.com/watch?v=8kJvGyhWTnQ


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千利休

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91

以下Wiki抜粋

利休(せん の りきゅう、せん りきゅう、大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。

わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。子孫は茶道の三千家として続いている。天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に齟齬を生じ、最後は切腹へと追い込まれた。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あって定まっていない。

生涯
和泉国・堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業は納屋衆(倉庫業)。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われた。

本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えた。天正13年(1585年)10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。天正15年(1587年)の北野大茶湯を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成へと向かっていく。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、禄も3千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟は大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と耳打ちされた。

天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70[1] 。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋で梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。

利休が死の前日に作ったとされる遺偈(ゆいげ)が残っている[2]。

千利休を題材にした作品
お吟さま(今東光 1957年 淡交社)、数社で再刊

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高山右近

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91

高山 右近(たかやま うこん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。代表的なキリシタン大名として知られる。

父は摂津国人・高山友照、母は洗礼名マリア。同じく摂津国人の中川清秀は従兄弟とされる。

通称は彦五郎。有名な「右近」の呼び名は私的な名で、正式な官位としては大蔵少輔までなっている。諱は友祥(ともなが)、長房(ながふさ)、重友(しげとも)など複数伝わるが、文書等で確認できるのは「重友」のみ。この項目での呼称は「右近」で統一する。因みに、長房の名は嫡男と孫にも付けられている(ジョアン、フランシスコ)。

洗礼名はポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味するジュスト(ユストとも)[注釈 2]。 号は南坊。千利休の七高弟(利休七哲)の一人としても知られる。

生い立ち
高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主である。出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれる。父の友照が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣・松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城とした。

そうした中、右近は天文21年(1552年)に友照の嫡男として生まれた。後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄7年(1564年)に12歳でキリスト教の洗礼を受けている。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであった。右近はジュストの洗礼名を得た(父の洗礼名はダリヨ、母の洗礼名はマリア)。

永禄7年(1564年)、三好長慶がに没すると三好氏は内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津においても豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の力を強めつつあった。

永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下、足利義昭が15代将軍となると状況は一変。義昭は摂津の土着領主の一つである入江氏を滅ぼすと、直臣である和田惟政を高槻城に置き、彼と伊丹親興・池田勝正を加えた3人を摂津守護に任命した(摂津三守護)。高山父子はこの和田惟政に仕えることとなった。

元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重と中川清秀の軍に敗れて討死し(白井河原の戦い)、まもなくその村重が池田氏を乗っとる。村重は信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼす。こうして摂津は石山本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、村重の領有となった。

和田惟政の死後、高槻城はその子・惟長が城主となったが、まだ17歳だったため、叔父の和田惟増が彼を補佐していた。しかし惟長は何を思ったのか、この叔父を殺害してしまう。これにより高山家が主だった相談役となったが、これを良く思わない和田家臣たちが、惟長に高山親子の暗殺を進言した。高山家には「惟長は好機があり次第、高山親子を殺すことに決めた」という知らせが届いた。友照はこの事を村重に相談、村重は「もしそうであるなら殺される前に殺すべきだ。自分は兵をもって援助する」と言い、惟長の所領から2万石を与えるという書状を与えた。

元亀4年(1573年)3月、惟長は反高山派の家臣と共に、高山父子を話し合いと偽って呼び出した。高山父子は仲間から呼び出しが罠だと聞かされたが、14~15名の家臣を連れて高槻城へ赴き、待ち構えていた惟長らと斬り合いになった。夜だった上に乱闘で部屋のロウソクが消えてしまい、真っ暗になったが、右近は火が消える前に惟長が床の間の上にいるのを見ており、火が消えるとすぐさま床の間に突っ込んで、腕に傷を受けつつも惟長に二太刀の致命傷を負わせた。だが、騒ぎを聞いて駆けつけた高山の家臣達が加勢すると、そのうちの1人が誤って右近に斬りつけ、右近は首を半分ほども切断するという大怪我を負ってしまう。およそ助かりそうにない傷だったが、右近は奇跡的に回復し、一層キリスト教へ傾倒するようになった。一方、惟長は輿に乗せられて家族や家臣たちと和田家の生国・近江国甲賀郡へ逃れたが、同地で死亡した[注釈 3]。

この事件の後、高山父子は村重の支配下に入った。村重は既に信長から摂津一円の支配権を得ていたため、この事件は問題にされることもなく、高山父子は晴れて高槻城主となることができた。2人はまもなく高槻城の修築工事を行い、石垣や塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れた。

友照は50歳を過ぎると高槻城主の地位を右近に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践するようになった。この時代、友照が教会建築や布教に熱心であったため、領内の神社仏閣は破壊され神官僧侶は迫害を受けた。父の生き方は息子の右近に大きな影響を与えた。

荒木村重の反乱
天正6年(1578年)、右近が与力として従っていた荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻した。村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと考え、妹や息子を有岡城に人質に出して誠意を示しながら謀反を阻止しようとしたが失敗した。右近は村重と信長の間にあって悩み、尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めた。神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」とアドバイスした。

高槻城は要衝の地であったため、信長はここをまず落とそうとした。右近が金や地位では動かないと判断した信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫する。

城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと開城を求める派で真っ二つとなった。懊悩した右近はここにいたって信長に領地を返上することを決め、紙衣一枚で城を出て、信長の前に出頭した。荒木村重は城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしなかったが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となった(後に村重の重臣であった中川清秀も織田軍に寝返った)。この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、2万石から4万石に加増される異例の措置を受けた。

キリシタン大名として
天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が没すると、明智光秀は右近と清秀の協力を期待していたようだが、右近は高槻に戻ると羽柴秀吉の幕下にかけつけた。まもなく起こった山崎の戦いでは先鋒を務め、清秀や池田恒興と共に奮戦、光秀を敗走させ、清洲会議でその功を認められて加増された。また、本能寺の変後の動乱で安土城が焼けると安土のセミナリヨを高槻に移転した。賤ヶ岳の戦いでは岩崎山を守るものの、柴田勝家の甥・佐久間盛政の猛攻にあって清秀は討死し、右近はやっとのことで羽柴秀長の陣まで撤退して一命を保った[注釈 4]。 また、この件で勝家への内通を疑われ、天正11年5月16日(1583年7月5日)には一時、居城・高槻城を攻められている(多聞院日記)。その後も小牧・長久手の戦いや四国征伐などにも参戦している。

右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなった。たとえば牧村利貞・蒲生氏郷・黒田孝高などがそうである。細川忠興・前田利家は洗礼を受けなかったが、右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的であった。

友照の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った。領内の多くの寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述がある。反面、『フロイス日本史』などのキリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかったが(実際に寺社への所領安堵状も受洗後に出している)、その影響力が絶大であったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となった。そのため廃寺が増え、寺を打ち壊して教会建設の材料としたと記されている。

国外追放
秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城とした。しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行される。キリシタン大名には苦しい状況となるが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせた。その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後国などに隠れ住むが、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らした。

天正18年(1590年)の小田原征伐にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍している。金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれる。また利家の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われる。慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中国射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したといわれる。

慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月8日(1615年2月4日)に息を引き取った。享年64。

葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で盛大に行われた。右近の死後家族は日本への帰国を許され、現在、石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」がある。

死後
高山右近没後400年にあたる平成27年(2015年)、日本のカトリック中央協議会は「高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」として、福者に認定するようローマ教皇庁に申請した[5]。

同年6月18日、教皇庁の神学調査委員会が最終手続きに入ることを了承し[6]、翌平成28年(2016年)1月22日に教皇フランシスコが認可した[7]。 同年6月23日、カトリック中央協議会は教皇庁国務省が高山右近の列福式を、2017年2月7日正午から大阪市で執り行う(会場は大阪城ホールの予定)と発表したことを明らかにした[8]。

逸話
バテレン追放令を出した秀吉は右近の才能を惜しみ、茶道の師匠である千利休を遣わせて棄教を促したが、右近は「主君の命令に背いても志を変えないのが真の武士である」と答え、利休に説得を諦めさせた。

高山右近を主題とした作品
吉川英治 『高山右近』 講談社吉川英治文庫全2巻
加賀乙彦 『高山右近』 講談社のち講談社文庫
長部日出雄 『まだ見ぬ故郷 高山右近の生涯』上下、毎日新聞社のち新潮文庫

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グネッキ・ソルディ・オルガンティノ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%8D%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E

グネッキ・ソルディ・オルガンティノ(オルガンティーノ・ニェッキ・ソルド/ニェッキ・ソルディ、Organtino Gnecchi‐Soldo/ Gnecchi‐Soldi, 1533年 - 1609年4月22日)は、戦国時代末期の日本で宣教活動を行ったイタリア人宣教師。カトリック司祭。イエズス会員。人柄が良く、日本人が好きだった彼は「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」と多くの日本人から慕われ、30年を京都で過ごす中で織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者となった。

生涯
1533年北イタリアのカストで生まれたオルガンティノは22歳でイエズス会に入会した。ロレートの大神学校、ゴアの大神学校で教えた後で日本に派遣された。来日は1570年6月18日(元亀元年5月15日)で、天草志岐にその第一歩をしるした。着任後まず日本語と日本の習慣について学び、1573年(天正元年)から1574年(天正2年)にかけて法華経を研究した[1]。 オルガンティノははじめから京都地区での宣教を担当し、ルイス・フロイスと共に京都での困難な宣教活動に従事した。1577年(天正5年)から30年にわたって京都地区の布教責任者をつとめた。持ち前の明るさと魅力的な人柄で日本人に大変人気があった。パンの代わりに米を食べ、仏僧のような着物を着るなど、適応主義を取ったことで日本人からの受けがよく、着任3年で近畿地方における信者数を1500から1万5,000に増やしたという[2]。 オルガンティノとともに日本に来て九州での布教責任者となったフランシスコ・カブラルが大名の大村純忠を入信させたにもかかわらず、その頑固で短気な性格から多くの日本人を教会から遠ざけたのとは対照的だった[3]。

オルガンティノは1576年(天正4年)に京都に聖母被昇天教会いわゆる「南蛮寺」を完成。1578年(天正6年)、荒木村重の叛乱時(有岡城の戦い)には家臣と村重の間で板ばさみになった高山右近から去就について相談を受けた。1580年(天正8年)には安土で直接織田信長に願って与えられた土地にセミナリヨを建てた。オルガンティノはこのセミナリヨの院長として働いた。最初の入学者は右近の治める高槻の出身者たちであった。第一期生の中には後に殉教するパウロ三木もいた。しかしこのセミナリヨは信長が本能寺の変で横死した後で安土城が焼かれた時に放棄された。1583年(天正11年)には豊臣秀吉に謁見して新しいセミナリヨの土地を願い、大坂に与えられたが、結局、右近の支配する高槻に設置された。

1587年(天正15年)に最初の禁教令が出されると、京都の南蛮寺は打ち壊され、高山右近は明石の領地を捨てた。オルガンティノは右近とともに表向き棄教した小西行長の領地・小豆島に逃れ、そこから京都の信徒を指導した。翌年、右近が加賀国に招かれると、オルガンティノは九州に向かった。

1591年(天正19年)、天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。前田玄以のとりなしによって再び京都在住をゆるされた。1597年(慶長2年)には日本二十六聖人の殉教に際して、京都で彼らの耳たぶが切り落とされると、それを大坂奉行の部下から受け取っている。オルガンティノは涙を流してそれらを押し頂いたという。

半生を日本宣教に捧げたオルガンティノは最晩年、長崎で病床につき、1609年(慶長14年)、76歳で没した。

日本観
日本に好感を持っていたオルガンティノは、書簡の中で「われら(ヨーロッパ人)はたがいに賢明に見えるが、彼ら(日本人)と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。(中略)私には全世界じゅうでこれほど天賦の才能をもつ国民はないと思われる」と述べている[4]。また、「日本人は怒りを表すことを好まず、儀礼的な丁寧さを好み、贈り物や親切を受けた場合はそれと同等のものを返礼しなくてはならないと感じ、互いを褒め、相手を侮辱することを好まない」とも述べている[3]。

関連項目
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
芥川龍之介 小説「神神の微笑

関連作品
小説:辻邦生『安土往還記』 主人公のひとりとして登場する。

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熊井啓への旅

http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kumaikei/kuma41.html

お吟さま
意志貫く女性 主役に
井啓の第九作は「お吟(ぎん)さま」だ。
お吟は、安土(あづち)桃山時代の茶人、千利休(せんのりきゅう)の後妻(宗恩)の連れ子という設定である。血の通った娘ではないが、利休とお吟の間に は真の親子以上の強い絆(きずな)が築かれている。彼女は堺の町で美しく成長し、二十歳になっても嫁入りせず、幼なじみの妻あるキリシタン大名、高山右近 (うこん)を恋慕していた。
堺は摂津(せっつ)、和泉(いずみ)、河内(かわち)の三国の境に位置し、畿内(きない)と瀬戸内海を結ぶ要衝(ようしょう)の地。貿易港の町として古 くから栄え、応仁(おうにん)の乱で京都が荒廃すると、京に替わる物資の集散地となり、堺商人の活動はいっそう活発した。町民は周辺の武将に金を贈って町 の安全を保ち、自治を推し進めた。自治の中心は会合衆(えごうしゅう)、納屋衆(なやしゅう)と呼ばれた富豪商人たち。絶頂期に堺を訪れた宣教師は、イタ リア・ベニスのごとく「多数の富裕な商人が住み、大いなる特権と自由を有した共和国のようだ」と母国に報告したという。
利休はそんな堺に生まれた。豊かな経済力を背景に、茶の湯に代表される都市文化が花開いた真っただ中で育ち、茶人としての道を歩んだ。豊臣秀吉の天下統 一の完成期にも当たり、秀吉の世になると、筆頭茶頭(さどう)に出世し、独自の茶の湯をつくり上げる。
二畳の茶室と躪口(にじりぐち)、茶室を世俗と切り離すための露地(庭の小径(こみち))。一切の虚飾、無駄を削(そ)ぎ落とした狭い空間、そこに厳格 な作法を加えるとき、主客の間には緊張感が生まれ、茶室は神聖な空間となる。利休が到達した美の境地「わび茶」である。
加えて利休が有名なのは、秀吉の側近として仕えたものの、最後に秀吉の怒りを買って自刃(じじん)させられたからだ。死を招いた原因は諸説あっていまだ はっきりしない。
つまり利休という人は、秀吉と出会わなければ、それなりの茶人で終わって今日に至る茶の湯の大成はなかっただろうし、非業(ひごう)の死もなかった。
「千家略系図」によると、利休の下に「亀」という名が記され、もう一つ、後妻宗恩の連れ子(少庵)の嫁に「亀」という名がある。これを見る限り、宗恩の 連れ子は男子であり、利休の実娘の「亀」が少庵に嫁入っている。
「お吟さま」は、今東光(こんとうこう)の直木賞小説『お吟さま』を原作とする。そこには、お吟は「お小さいときにはお亀さまと申(もうし)あげました そうで」と書かれている。「亀」がお吟なら、お吟は利休の本当の娘と思われるが、小説では義理の娘になっている。
映画「お吟さま」は、熊井が初めて挑んだ時代もの、熊井はこの映画で二つのテーマに取り組んだと言える。
一つはお吟の生き方だ。象徴的なシーンがいくつかある。中野良子(りょうこ)演じるお吟は、中村吉右衛門の高山右近と懐かしげに再会する。右近がサンタ マリア(聖なる母)に喜んで命を捧(ささ)げる所存だと告げると、彼女は「ならば私(わたくし)も右近さまを好きになってもよろしいですか?」と聞き、 「他の人のところへは嫁ぎません」とだだをこねる。右近は「うーん、これは困ったなあ」と頭をかく。
お吟の小さな企(たくら)みで暗い部屋で二人きりになり、お吟が右近の胸にもたれかかるシーンでは、愛(いと)しければ、なぜ私を奪ってくれないのかと 迫るお吟に、右近は「ならん、お吟どの、許されん。…おまえさまが命を懸(か)けて愛をとげるというのなら、右近も命懸けで信仰をとげているのだ。わかっ てくれ」と振り切り、立ち上がって障子戸を開け放つ。そこでお吟は「二度とお目にかかりません。幸せな妻となるよう努めます。ごめんくださいませ」と言う。
京都北野の大茶湯(おおちゃのゆ)が催され、三船敏郎演じる秀吉が美貌(びぼう)のお吟を見初めて側妾(そばめ)に所望(しょもう)し、石田三成(みつ なり)や夫の万(も)代屋(ずや)宗安(そうあん)さえもが秀吉に差し出す画策をする。大坂城の黄金の茶室に招かれたお吟は秀吉に言い寄られる。だが、彼 女は「帰らせていただきます」と突っぱね、秀吉に「右近の命、利休の命と引き換えであってもか」と脅かされても翻意しない。
右近への愛を貫き、絶対者秀吉すら恐れず、仕舞には自害に追い込まれるお吟。自分の思いに素直に、自分の意志を何より大事に生き抜く、この時代では稀有 (けう)な「近代的な女」として熊井は描いた。
文と写真/赤羽康男

熊井啓の経歴
熊井 啓(一九三〇-二〇〇七) 映画監督。豊科町(現・安曇野市)に生まれ、松本市で育った。松本中(現・松本深志高)から松本高等学校に入学、新制 の信州大学理学部を卒業した。独立プロの助監督を経て日活撮影所監督部に入社、助監督後、「帝銀事件・死刑囚」で監督デビュー、骨太な社会派監督として活 躍した。「海と毒薬」でベルリン国際映画祭審査員特別賞(銀熊賞)、松本サリン事件を題材にした「日本の黒い夏-冤罪」でベルリン国際映画祭特別功労賞な ど受賞多数、紫綬褒章も受けた。主な監督作品に「黒部の太陽」「忍ぶ川」「サンダカン八番娼館・望郷」「深い河」ほかがある。